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言いおおせて何かある|俳句修行日記

 とある出会いが衝撃的で、仕事が手につかない。師匠が「どうした?」と渋い顔をするので、ボクは窓の向こうに目をやりながら、「愛こそはすべて」と言ってみる。すると師匠、「おまえにゃ俳句は無理かもしれんな」と。
 雷鳴とどろく窓辺にボクは、「俳句に愛はないんすか」聞いてみた。師匠しずかに、「違うよ」と言う。

 何でも、俳句の世界には「言いおおせて何かある」という言葉があるらしい。「言い尽くしてどうする」という意味らしいが、断言することを戒めるものだという。
「俳句の前身である俳諧の世界では、付けやすさを考慮するのも礼儀じゃ。つまり、次を担う者のために、自己中心的な『断定』は避けねばならん。」
 何やら、子規の提唱した『写生』の見地にそぐわぬ言葉だとも思えるが、師匠、「写生は一個人の偏見に行き着くことを認識すべきじゃ」と言う。十人居れば、十人の見方があることで俳句は成り立っているのだと。

 断定は広がりを阻害する。共通認識を育むことが社会生活を営む上で重要だとは言え、それを正義とする世界には対立が絶えない。誰もが受け入れられるためには、社会というのは独善の集合体であるということを認識すべきだと。
「それゆえに、見聞は『あいまい』に表現すべきじゃ。」
 なんだか日本人の悪習が押し付けられているみたいで、「説明の端から言い尽くしているじゃん!」と言いたかったのだが、その言葉をさえぎって師匠のたまう。「愛さえ独善と知るのが俳句じゃ」と。

 自己主張を多様性に委ねて、他者を虐げる時代。独善のひしめき合う中、少なくとも穏やかな居場所を求めるなら、「他者を前にした断言は避けるべきだ」と、師匠は言うのだ。(修行はつづく)

下臥につかみわけばやいとざくら
先師路上にて語り給ふ。此頃、其角が集に此句あり、いかに思うてか入集しけむと。去来曰、糸ざくらの十分に咲きたる形容、よくいひおふせたるに侍らずや。先師曰、いひ課て何かある。予ここにおいて肝に銘ずる事あり、はじめて発句になるべきことと成まじき事とを知れり。

去来抄より