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文体について|俳句修行日記

 友人と俳句談議になって、カッコいい俳句の条件探しをした。そんな中で奴は、古語を用いることが必要条件だと言う。そして、知識の豊富さを自慢しながら威張りくさって、「ソレ、こぶんにしてやるよ」と。憤慨したボクは背を向けて、師匠のところへ直行。「古語って、どうやって勉強したらいいんすか?」

 師匠が言うには、『古語』とは勉強するもんじゃない。古い文献中の言葉でしかないのだと。初等教育は、そこに規格化されたものがあるかのような錯覚を植え付けるが、それは、時代や地域に応じて無限ともいえる広がりを持つ。もしも、そんな『古語』に縛られて今を詠むなら、そこには不実が現れるのみ。
 師匠のたまう。「勉強したいなら、文語と言え」と。

 現代人は、『文語=古語』のイメージを持っている。けれども実はそうじゃない。それは、近代における言文一致運動が導いた思い込みである。口語体と呼ばれる表現手法を導入するがための、方便であった。
 しかし、五七五の構文を念頭に置いた俳句は、どのようなスタイルで綴ろうが、それは全て文語となる…

「文語ですか?」と聞くと、「心に刻み付けるための言葉遣いじゃよ」と師匠。会話を目的とした口語とは異なり、顔の見えない対象に向けて発せられる言葉のことである。そのために、文字の持つ響きを汲み取り、それを有効に展開する構造を持つ。それこそが、声音に秘められる『情』を代弁するものなのだと。


 ある時、歴史的仮名遣いを用いて清書すると、現代仮名遣いとの混用が見られるとの指摘があった。最高傑作だと思った俳句がすっかり色あせ、しょげかえって仕事をしていると、師匠が「気にすることはない」と。

 師匠が言うには、歴史的仮名遣いにこだわり過ぎると、情景すらも過去を志向し、吟詠の意味を見失ってしまうものなのだそうだ。また、現代語とのミスマッチをも引き起こし、眼前の景色すらも詠めなくなってしまうものだよと。

 ただ、歴史的仮名遣いは、多彩な魅力を引き出してくれるものでもある。かつて変体仮名というものがあったが、現代における位置づけは、それと似たようなものだと考えればよい。
 つまり、言葉に期待する『情』を引き出すために、状況に応じて引っ張って来れば良いのだと。

 何よりも一番に留意すべきは、『如何に響くか』ということ。「体裁や過去へのこだわりは二の次にして、如何に『情』が流れるかに心を砕け」と。(修行はつづく)