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尽きることのない資源|俳句修行日記

 俳句なんて、所詮十七文字の文芸。多くの者が参入し、毎日何万という俳句が生まれていたら、やがて創作にも限界がくるんじゃないかな ――― ふと、そんな考えが脳裏をよぎる。
 すると師匠、「おまえは、言葉というものを鉱物資源のように考えているようだな」と。

「日本は資源大国だと言ったら、おまえはどうするぞ?」
 師匠が聞くので、「金銀銅の産出量が世界屈指だったという、昔話ですか?」と応えた。

 独占欲あるところに資源は尽きる。「おまえは、言葉の誉れをひとりじめしたいと願う利己主義者のようじゃ!」
 言葉というものは、どんなに使い込んでも尽きることがない。何故かと問うと、それは「生きている」からなんだと。

 同じ言葉を使っても、そのタイミングによって響きは変わる。師匠言う。俳人というものは、新しい詞を発掘する存在ではなく、言葉の働きを発見する存在なのだと。たとえ、過去に重複する文言があったとしても、時空を超えると働きは変わる。神々は、ひとを使って言葉を循環させ、現在を彩る響きを轟かせるもの。
「だから俳句は、口元を離れたら他者のもの。」
 つまりソレは、個人のためにあるのではなく、味わう者のために存在するのだと…


 ところで、なぜ日本が資源大国なのかと聞くと、「天恵ある大地に、協働文化が根付いておるからじゃ」と、師匠言う。それがあれば、ひとは働く喜びを享受できる。無限に再生される神の賜物とともに、歌いながら生きていくことができるのだ。
 本物の『資源』とは、『人が生きる土壌』。それは、世世をつなぎ渡る『人』という資産を、尽きることなく育む源泉…(修行はつづく)