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ありがとう、東京五輪

東京2020オリンピック競技大会は二週間余りの大会期間を経て、今日閉会式を迎えた。

1年の延期を余儀なくされ、コロナ禍に開催された異例の五輪であった。

私は開会前、正直なところ五輪に興味がなかった。

開催反対なわけでもなかったが、こんな状況で開催して誰が楽しめるのか、とか、通行規制が面倒くさいなあ、などと思っていた(選手村の近くに住んでいるので、実際交通面ではかなり私生活に影響があった)。

私は参加していないが、家の近くでは半年前くらいから頻繁に“オリンピック反対”デモが起こっていた。

開催一週間前の華金ですら、長蛇のデモ隊が形成され、警察が動員されていたことを思い出す。

自宅周りをそんな物々しい空気にさせ、自身すら大した興味を持たなかったオリンピックだが、閉会式を迎える今、私はこの東京五輪にとてもとても感謝しているのだ。

誰かの本気は、素人すらをも熱くさせる

私はかねてよりスポーツ観戦に殆ど興味がなかった。

部活動も文化系で、ウェイトトレーニングくらいしか馴染みがなかったので、スポーツというものに疎かったのだ。

そんな私が17日間、毎日何かしらの競技と睨めっこしては声をあげ、喜んだり悔しがったり時には涙腺をも緩めていた。

自分が精通していない分野でも、プロの本気をじっくりと見れば、自分までが熱くなれる。

4年に1度しかない五輪、その中でも一生に一度しかない一投、一球、一瞬に、観戦する自分までもが刹那を感じてしまうのだった。

国境を超えた思いやりに、心動かされる

スケボーで着地に失敗した世界ランク1位の岡本選手(日本)が泣き顔で競技から戻るところを、違う国の選手たちが担いで讃えるシーン(写真:毎日新聞より)。

このシーンは、何度見ても泣きそうになる。

このほかにも、走り高跳び決勝でカタールとイタリアの選手がジャンプオフを実施せず、金メダルを分かち合ったシーン。

バトミントンにて、膝を怪我していた日本人選手の膝をライバルの中国人選手が試合後真っ先に気にかけたシーン。

マラソン競技中、ドリンクを取り損ねた選手に気付いて他国選手が自分の飲み物を分けてあげるシーン。

どれもスポーツマンシップ、国境を超えたリスペクトに溢れた行為であった。

更に、この国と国を跨いだこれらの行為は、コロナ禍で忘れかけていた「世界」を、ほんの少しでも思い出させてくれた。

自粛生活、リモートワークが続くなかで、人との交流も、街で外国人を見かけることもかなり減った。

内に籠った、狭い世界が当たり前になっていた今日この頃。

そんな折、五輪は自分が「世界」の住人であったことを認識させてくれたのだ。

ボランティアの方々に、青春を感じる

冒頭でも述べたが、選手村近くに住む私は、関係者の方々と連日道ですれ違った。

朝、駅の方面から向かってきて、夕方は駅の方へ帰って行く彼ら。

大会関係者の証明書なのかIDなのかはわからないが、皆首にカッコいい何かぶら下げている。

帰りは何人かで一緒に帰っていることが多いが、みな生き生きとして笑顔が浮かぶ様から、その日の達成感が窺われる。

私はここ最近、こんなに生き生きと、仲間と働いたことがあっただろうか。

彼らを見ていると、高校生の部活帰りを思い出した。

暑いなか、毎日大変ではあっただろう。

しかし、毎日何かしらの達成感を仲間と抱えて笑いながら帰る、そんな青春を見て取れた。

それが結構羨ましかったし、ここでもまたコロナ禍によって当たり前でなくなった“そういうもの”を、思い出させられた。

ありがとう、東京五輪

こうしてみると、東京2020オリンピック競技大会は、私がここ数年で忘れかけていたものを呼び起こすようなイベントであった気がする。

何かに打ち込み真剣になる気持ち。
自分は広い「世界」に生きているという確信。
仲間と達成感を分かち合う日々。

どれも今の自分に不足していることに気がつく。

そっと閉めていた蓋が五輪という刺激によってはずれ、上記に対する欲望が少しずつ溢れ出す。

柔道の大野選手は、試合後のコメントの一部でこう述べた。

賛否両論があることは理解しています。ですが、われわれアスリートの姿を見て、何か心が動く瞬間があれば本当に光栄に思います。

心が動く瞬間は、あり過ぎたのだ。

ありがとう、東京五輪。

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