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常識は変化するもの、自分の常識を意識してみよう

常識という言葉には「社会人として必要最低限の素質」のような響きがある。
常識がないと言われると、本人は社会に孤立され、理解されない気持ちになるのでしょう。

では、この常識とは一体なんでしょうか?

広辞苑では常識を次のように定義している

普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。専門的知識でない一般的知識とともに、理解力・判断力・思慮分別などを含む。

広辞苑 第七版

また、「一般」を「広く認められ成り立つこと」と定義している。

どの範囲が「広く」と定めるのが良いのでしょう?家庭、職場、文化、宗教、時代?

文化や宗教が違えば、また歴史の時期が違えば、常識が異なってくるのは言うまでもない。とある文化や宗教の常識は別の文化の批判対象で、とある歴史時期の常識は現代では理解できない根も葉もない話であるケースも少なくない。現在の常識もきっと時間と共に変化していくのでしょう。

「思考力、判断力、思慮分別」も常識の範疇に加わると、同じ時期の同じ文化にも家庭や職場が違えば、常識が違ってくることはあるのでしょう。

こうみれば、常識は「特定のグループの間でコミュニケーションや秩序を保つための一つのツールにしかない」になるのでしょう。

常識は本当にツールでしかなかったら、個人レベルで常識とどう付き合ったほうがいいのでしょう?

それは、自分が所属するグループまたは自分はどんなことを常識のように思っているかを認識して(「大体な人はこうでしょう?」「こうする人あまりいないでしょう」「こうやるべきじゃない?」と思う時は100%自分にとっての常識)、何故この常識があるのか、違う文化や未来にも通用できるかを考えてみること。こうすれば、思考の自由にもう一歩近づけられるのでしょう。もちろん、自分の所属するグループの常識は守るべき時は守る、覆すべき時は覆す。

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