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南京事件の論考の原稿、人口編

さて、個別の南京事件についていよいよ述べます。
当方は3番目の立場ですが、
1番と2番目の立場の現在残っている事案について述べておきます。
1番目は、共産主義者、社会主義者と番犬(Science Council of Japan)しか言わないのは前回述べました。
2番目は、本当は二つに分かれていて、偕行社の論旨をとる人々と秦郁彦教授の学説をとる方に分かれています。
前者は、かなりマニアックで、東京裁判の内容を事実ではないとする立場であまりおられません。
それに引き換え、後者は東京裁判判決を事実かもしれないと受け止める人々で、秦郁彦教授の書籍が一般書として相当数で回ったために、その学説の中のなんとなく日本人が酷いことをしたのだという論旨に引きずられて、政治的に中国共産党と妥協できないかと考える人々です。こちらの方が大多数であると考えます。

1番目の日本の主張は、前回の[Gyakusatu(massacre)]の「定義」を取りながらも、「酷い」という「感情」を喚起するような用語を扇情的に使うのが特徴です。
彼らの「理解」する「定義」の特徴ですが、「国際法」を言及しながら、「国際法」についての理解が全くありません。
その中で、彼らが主張は、次の4点のようです。
1. 数カ所に大量の人々を集めて、一度に殺害したわけではない。南京を含める様々な場所での「殺害」。
2 安全区の欧米人の書いた「酷い」と思う「行為」
3. 軍服を着脱した敗残兵の「殺害」と誤認された一般人の「殺害」
4. 城外での幕府山、雨花台、馬群などの「捕虜」の「殺害」


順番に答えていきます。
1.について、彼らは、その場所に捕虜および非戦闘員が、大量と言わなくともそれなりの人数がいたということを立証する必要があります。そして「殺害」されていたということも立証する必要があります。
では、彼らがそれを立証したかというと、立証できてません。
すでに、前の記事で書きましたが、一部の場所での避難民という非戦闘員が集まっていたことは立証できていますが、それらの人々が「殺害」されたという立証は全くできていません。
南京攻略戦直前の12月3日以降での南京の人口統計は存在しません。
そして、周辺20kmエリアは、防衛施設で構成されています。存在するのは、兵士とその手助けをする非戦闘員ぐらいでしょう。
仮に、15万人もいたとしても、全てを殺害することは日本軍には不可能ですし、必要なことでもありません。
ですから、50万人以上がいたなどということはあり得ないのです。
【Population of Nanjing in December of 1937】(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Population_of_Nanjing_in_December_of_1937)の情報を50万人の根拠にされている方がいるようですが。
Various recent estimates put the population of the city in December at as many as 500,000 civilians and 150,000 soldiers or as few as 200,000 civilians and 70,000 soldiers.
このテキストの500,000という数値は、笠原十九司教授の証拠のない「delusion, falsehood, untruth, fiction, lie, distortion」に過ぎない。なぜなら、人口が存在したエリアを明確に特定して人数も立証もしていないのです。
この笠原教授は、逃走する兵士への追撃も「違法」としている「戦時国際法Law of war」の理解が乏しい人物です。
そして東京裁判の崇善堂の埋葬記録を無批判に信じるというカルトで無垢な一面もあります。
単なる希望的な数値で何の根拠もありません。
東京裁判で、証拠となった崇善堂の埋葬記録についてもう少し述べてみたいと考えます。
このシークレット団体の活動は、
城内でも行われています。
崇善堂は、4つのグループに分かれています。
それぞれ4つの期間で、それぞれ別の場所で埋葬活動を行っています。
1)1937年12月26日〜28日 3日間 1011名
2)1938年1月3日〜2月4日 33日間 1576名
3)1938年2月5日〜3月6日 29日間 2260名
4)1938年3月7日〜4月8日 33日間 2448名
合計で、7295名です。
埋葬地も、安全地区に沿う新街口や鼓楼などがあります。
この様に近い場所での埋葬ですが、彼らの存在は知られていません。
特筆すると、1)の新街口での埋葬活動では、ちょうど同時期にジョン・ラーベの日記の記述では、彼は自宅近くの遺体の処理を希望していたにも関わらず、埋葬活動を行っている団体を認識していません。
埋葬場所のラーベの家の近くの五台山です。
少なくとも、崇善堂の活動は存在しないと推測がなり立つと考えます。
紅卍字会の埋葬活動には、日本軍の特務機関が資金を提供しています。
しかし、崇善堂の名前はそこには出てきません。
紅卍字会を越える活動を行いながら、知られていないという事は考えられないのです。
つまり、崇善堂は当時埋葬活動を行っていなかったという事が、蓋然性が高いと言えます。
以上少ない点から考えても、東京裁判での【証拠】が【事実】とは言えないということに繫がります。
これを読んだ方は、南京の人口について50万以上という話は成立しないと言う事が判ると考えます。
当時の状況を史料を元に考えると、南京大虐殺というようなことはあり得ないと言う事になります。
今回はここまで。
次回は、私は[2.安全区の欧米人の書いた「酷い」と思う「行為」]について述べたいと思います。

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