哲学研究の対象にシモーヌ・ヴェイユを選ぶ理由となった個人的体験。

【非常に感傷的でめっちゃ長いです】

Facebookと大学院のホームページ以外、ネット上では、私の哲学研究の具体的な対象や内容についての発言は、身バレ防止のために避けてきましたが、大学院のホームページ上で私の名前と論文を削除してもらったので、研究対象の哲学者名を公表することにしました。

※シモーヌ・ヴェイユはマイナーな哲学者ではありませんが、日本では主にフランス文学の研究対象とされていて、哲学者として専門に研究している学者は少数派なため、ネットに論文やコラム等を本名で上げていると、身バレする確率が非常に高い。

(私のシモーヌ・ヴェイユの不幸論に関する論文の序文の一部は、私のnoteの初投稿をご覧ください。)


私が「絶対に精神医療福祉の問題に取り組まねばならない理由」について、語ります。

社会医療法人北斗会さわ病院の事件に関するお話です。


――その前に。精神障害者への「狂人」という偏見と差別意識に関して――


私は、精神医療福祉界隈でまともな専門家だと認識できるような人に、ほとんど会ったことがありません。

私の指導教官は数少ないまともな専門家だと思っていますが、指導教官も含めて、専門家同士の「あの人は専門家として素晴らしい人だよ」という言葉はそれほどアテにならないと、痛感させられることも少なくありませんでした。

善良な人はたくさんいるのですけれど、専門知識もスキルも専門家としての認識も甘い上に、ある瞬間、専門家であるが故の凄まじい差別意識や偏見が垣間見えるのです。

精神医療福祉の専門家は、基本的には精神障害者を心の底から信じてはいない。理性的な意味で信用ならない人間であると、その専門家自身が意識と無意識の狭間で思っている。その自覚されていない差別意識や偏見が、専門家の発言や行動の端々から感じられることが多々あります。


しかし私は、それを指摘しません。私は今、専門家というよりも精神障害当事者の立ち位置にいるので、精神障害者という弱い立場から専門家様方に物申すことは、大変な危険を伴います。

これは私だけの経験による見解ではありませんが、精神科医や精神保健福祉士と、精神病者・精神障害者との意見が異なっていた場合、一般的にはほとんどの人が無条件に前者を信用します。

精神病者・精神障害者が極めて冷静に、どれほど落ち着いた様子で論理立てて物を語っていても、理屈にすらなっていない暴論を吐く専門家の方が正しいに決まっていると思い込み、精神障害者を哀れみを込めた軽蔑の眼差しか、厳しい目付きで見るのです。

そこで、精神科医・精神保健福祉士と精神病者・精神障害者という立場に囚われずに、話の内容だけを純粋に精査し、吟味して、どちらの発言内容がまともか、そもそも人としてどちらがまともな人間かを見定めようとする人は、非常に稀な存在です。


ですから、私は自分を守るため、とりわけ精神医療福祉に携わる人たちの心象を悪くしないために、本当は大切なことであっても「余計なこと」は一切口に出しません。

専門家の批判を専門家の前でしてはならない。

とくに医者の世界は狭いですから、1人でも専門家の前で問題のある発言や行動を起こした場合、他の病院に転院しても、「こいつは問題児だから甘やかすな」という態度で接せられるリスクが非常に高まります。


私が以前かかっていた心療内科から新しい心療内科に転院する際に、紹介状を必要としない病院を探し続けていたのもそのためです。

紹介状の中身を見せてくれる医師もいますが、精神科では未だに何が書かれているか告げられずにきちんと封筒に糊付けをされてから紹介状を渡され、それを転院先の病院に持っていきます。

転院の場合でも紹介状は必要ないという病院もありますが、精神科・心療内科では一度でも病院にかかっていた場合、患者の病名や病状、治療過程などの情報を得るために必ず紹介状を持ってきてください、というところが多くあります。


紹介状を書いてもらおうと思っている医師が、まともな医師だと信頼できているならまだ良いのですが、不信感を持っていたり、どう考えてもまともな医師でないと思っている場合、その医師の個人的な主観による患者の人格非難などが書かれる事例もあるため、普通の感覚で考えて、特別問題のあることをしたことがない患者でも、運が悪いと、転院先の医師に人格否定をされたり罵倒されたり説教されたりします。

その人格非難の紹介状の内容は、このような病院を転々としている限り、延々とついて回ります。


他の科の医師でも未だに権威主義的で酷い医師はいますが、精神科に限っては患者は医師の前では常に優等生を装わなければなりません。(無論、例外的な病院もどこかに存在はするのでしょう。)

精神科医は精神科医同士かばい合う傾向が他よりも強いので、他の病院の愚痴を言うのもアウトです。

そのように気をつけなければ、冷たくされたり、罵倒されたり、適当な診察で誤診されたり、精神疾患の診断基準に基づかない医師の主観に基づく勝手な診断を下されてしまうこともあるので、注意が必要です。


私は、現在のかかりつけ医を信用していますが、それでも、話すべきことと、本来は重要なことでも身の安全のために話すべきではないことを分けて、話しています。

以前、独り暮らしでの療養生活に限界を感じていたときに、療養生活改善のために一時入院することを主治医に相談しましたが、主治医が一番始めに挙げた病院が、つい数年前に職員による患者への暴行・虐め事件で問題となった病院で、「この先生はクリニック内での診療と投薬の仕方に関しては信用できるけど、精神科の問題全てに関して正しい知識があるというわけではないのだな」と思い、とくに緊急性もないこともあって、入院の話は無かったことにし、その事件があった病院の話にも突っ込まずに、穏便に話を終わらせました。


神戸には大々的に報道されただけでも、事件を起こし続けていた精神病院が2ヶ所あります。

精神病院は今でも閉鎖的なところが多く、院内での患者の暴行や殺人、虐めなどに関する情報は不透明です。被害者である患者が院内から公衆電話で外の人間に訴えても、精神障害者の妄想として片付けられてきました。

問題が明るみになった病院は、たまたま患者の家族などが外部から来たときに、たまたま暴行の証拠を発見できて、その外部の人が公表したから、大きく報道されたのです。


ですから、その他の現在問題視されていない精神病院でも信用できる病院なのかどうか、自分が実際に入ってみなければ分かりません。

暴行事件があった病院も、第三者委員会が入って改革をするという公式発表を最後に、実際に改革されたのかどうかなどの情報はネットからは得られません。

でも、入ってみてから嫌な目に遭うのも怖いですし、一生出られなくなる可能性も無きにしもあらずです。

そんな博打はできませんから、真剣に入院を考えることになったら、本当に信頼の置ける知り合いの専門家に病院の評判を訊いてから、主治医に角が立たないような話の持って行き方でその病院への紹介状を書いてもらうようにお願いするつもりです。


散々、まともな専門家が少ないという趣旨の話をしてきましたが、私の救いは、社会福祉学部時代の精神障害者福祉ゼミの指導教官が超絶まともな専門家だったことです。

大多数の専門家が知らないことをしっかりと把握していて、いつも忙しく駆け回っている最高の指導教官に師事できたことはものすごい幸運でした。


そのお陰で、単なる社会福祉学部生でしかなかった私でも、その時点でそこらへんの大学講師が知らないような専門知識まで既に持っていましたし、大阪府立大附属病院の精神科にかかったときには、医学部教授である医師の前に精神科医志望の医学生の前診察を受けたのですが、その限りでは、向精神薬の知識も含めて、精神医学の知識は私の方が精神科医志望の医大生より圧倒的に勝っていました。

その後、教授による本診察で、その医師が私に何の断りもなく5人の学生を私の後ろに勝手に並べて、その男子医学生らに見学させながら、私が医師に嚥下障害で固形物を飲み込めなくて、飲み込もうとするとどうしても吐いてしまうと言うと「吐くな!」と怒鳴り、私は学生一同の前で体重を測らせられ、私が持参した紹介状を一読してから「お前は性格に問題がある!次の○曜日までにこの心理テストを全部やってきて、真面目にうちの病院に通え!」と大声で説教されました(紹介元のクリニックでさわ病院の実態について口を滑らせたことで、紹介状には「私は精神病ではなく、性格に問題がある」と書かれていたらしい)。


――さわ病院事件――

私は、大学4回生のとき過呼吸で大阪の豊中にあるさわ病院に救急搬送されました。

けれども、救急車の中で既に落ち着きを取り戻していた私は、病院に着いてから当直医に過呼吸になっていた話をし、もう大丈夫なので帰りますと言いました。

当直医は不快感を露わにし、私に背を向けたままパソコンの画面だけをただ見つめながら「入院しないのならなぜ来んですか。せっかくだから1週間くらい入院しなさい」と冷たい口調、責め立てるような勢いで、何度も何度も繰り返ししつこく言ってきて、一向に帰してくれませんでした。

医師はこちらに振り向きもしないし、離れたところにあるパソコンテーブルでタイピングをしながらとにかく「入院しなさい」と命令してきて、もう訳が分からなくなった私は「なぜ入院しなければならないのか意味が分かりません」と言いました。

それがいけなかった。


医師はここぞとばかりに同席していた父に対して「じゃあ、娘さんが分からないと言っているので、お父さん、入院を決めてください」と言い放ちました。

私の「意味が分からない」という発言から「本人に判断力がない」とこじつけに断定して、医療保護入院を指示してきたのです。

このような医師が「精神保健指定医」の免許を有して、強制入院を指示していました。今でもこのような精神保健指定医はどこにでもいるでしょう。


父は私が幼少期から隠し続けていた病気の症状を突然目の当たりにして不安だったので「お願いします」と言って、私は最後まで医師の顔を見ることができないまま、強制入院をさせられることになりました。

私はさわ病院が、一度入ったら二度と出られない日本一の悪徳病院だとごく一部の専門家から言われていることを知っていたので、そのときは父を恨みました。


ですが、反論や抵抗は一切せず、素直に従いました。ここで拒否すれば「心神喪失状態にある」と断定されて、ますます危うい状況になることは目に見えていました。

自分が「狂人」ではないことを証明するためには「自分には、この“不当な”強制入院が必要であること」を大人しく受け入れ、従順になるしかなかったのです。


ストレッチャーに乗せられ、どんどん院内の奥へと運ばれていきました。

だんだん雰囲気が怪しくなってきたところで、看護師の1人に「どこへ行くのですか?」と質問したら、「ここは病室がいっぱいだから他の病棟へ行くのよ」との返答。

あ、これは保護室行きだな、とすぐに思いました。


着いてみると、なんと素晴らしい一面ガラス張りの保護室。しかもとっても広くて、ベッドも大きい。おまけに室内に清潔なトイレも完備されている。保護室の中でも特別なスイート保護室でした。

外側に面しているコンクリート打ちっぱなしの壁の窓には、もちろんお約束の鉄格子がついており、ベッドには忘れちゃいけない拘束具。トイレは廊下側にあって廊下を歩いている人がいたら、丸見えになってしまう。

デザイナーズ保護室かよと、冗談ではなく本気で脳内で突っ込みました。

なぜだかやけに落ち着いていて、もしかしたら一生閉鎖病棟で暮らすことになるかもしれないのに、この機会によく見ておこうと、部屋の中を隅々まで観察し、ガラス越しの廊下側もじっくり確認したのをはっきりと覚えています。


ひとしきり堪能した後、睡眠障害で眠れないため、睡眠薬を出してもらおうと思ったけれど、ナースコールもないのでどこにいるか分からない職員に向かってガラス越しに大声で呼びかけました。

ついでに生理が始まってしまったのでナプキンを持ってきてくださるようにもお願い。

非常に面倒くさそうな態度で要件を聞きに来ましたが、まあ、さわ病院なら来てくれるだけでも及第点だと思うことにしました。


用を足している姿を男性職員にバッチリ見られ、薬の処方も医師や薬剤師とは一切やり取りをせず。看護師からも何の薬なのか説明は一切ありませんでした。


でもそういうときこそ、冷静でないといけない。

努めて冷静に、振る舞わなければならない。

私の場合、こういう本当の危機的状況に陥ると、不思議と理性が活発に働き始め、頭の回転がちょうどいい具合に速くなります。私にとっての自己防衛本能なのでしょうか。

結局、看護師が持ってきた裸のマイスリー1錠(当時は今より知識もあったし、脳みその動きもまだマシだったので錠剤を見れば何の薬かはすぐ分かった)では眠れず、落ち着きを維持して拘束具のついたベッドの上で眠気が来るのを期待して、ちょっと座禅を組んでみたりしました。


そしてふと、もう一度廊下を見ると、廊下を挟んだ目の前に、悪さをした囚人を罰するために閉じ込めておくような独房にしか見えない小さな部屋のドアが。

その鉄製と思われる灰色のドアの小さな覗き口から私を見つめる女性。


私たちはしばらく見つめ合い、そこで唐突に、ここでは私も、この人も、人ではなく「モノ」として扱われているのだと自覚しました。

ここでは、心を持つ人間どころか、獣のように命あるものとしてすら扱ってもらえない。


退院時にも薬を渡されましたが、看護師からの薬の説明は何も無く。薬剤師などと会う機会も無く。薬品名と効果・副作用が書かれた説明書も一切無く。

精神医学の基礎は学んでいたので、錠剤を見れば何の薬かは全て分かったし、まあさわ病院なのだから、これくらいどうでもいいやと思いました。

感覚が麻痺したわけではなく、皮肉としてそう思うことにしたのです。


結果的には父が一緒だったことで、措置入院ではなく医療保護入院で済み、さらにライター兼ジャーナリストであった父が1人で帰宅した後に医療保護入院の同意書を読んで危機感を覚えて、機転を利かせて迎えに来てくれたお陰で、無事に退院することができたのでした。

※ 当時、父は鬱病のために早期退職して無職の状態でした。とにかく権威的なものが大嫌いで如何なる科目の病院にも行くことを拒んでおり、そのため生前には鬱病の診断はされていませんでしたが、他界後に私が主治医に詳しく証言した内容によって、父は生前鬱病と摂食障害であったと判断されました。


当時のさわ病院は、“日本の最先端精神医療機関”として持て囃されていましたが、一部の専門家からは、一度入院したら死ぬまで出られないか、薬漬けにされて大人しくさせられてから、表向きには「病状回復による早期退院」という名目と「地域に根付いた精神医療機関」という謳い文句と共に宣伝の道具にされつつ退院させられ、病院の敷地内にあるデイケアセンターに一生通わさせられて搾取され続けると言われていました。


私がさわ病院に「投獄」されたのが2003年。

それ以前から、さわ病院は日本の精神病院史上最悪の宇都宮病院(1982年に勇敢なジャーナリストが精神病者のふりをして内部潜入をし、院内のグロテスクな内情をルポルタージュとして公開したことで、数々の殺人事件や暴行等が発覚した)と同等の悪徳病院だと一部の専門家には知られており、私も指導教官からそれを聞いていました。

しかしながら、不祥事が発覚した2013年までは、さわ病院は日本では最も評判が良い精神病院であり、実は悪徳病院であるということを知っている人はごく僅かだったために、ずっと誰も糾弾できなかったのでした。


2009年1月にはテレビ朝日の「報道発ドキュメンタリ宣言」にて“日本の精神病院の現状を改革するために斬新な方法で尽力し続けている素晴らしい最先端の精神医療機関”として、さわ病院を絶賛する回が放送され、ネット上ではその番組を見た精神医療福祉の専門家を自称する人や精神疾患者やその他の大勢の人たちが、それを大絶賛していました。

1つ前の記事で書いた、さわ病院の職員が取材陣のインタビューに対して「精神病者には理性がない」と明らかな差別発言で返している場面がそのまま使われていたにも拘わらず、番組終了後、私が批判的な意見をいくらネット上で探しても、何ヶ月も何年も探しても、後に記述する1人の入院経験のある人のクチコミと1人の精神科医のホームページ以外には、さわ病院への悪評はネット上では見当たりませんでした。


私は自分の身と、“理性ある人”としての信用を守るために、さわ病院であったことを口にはできない。

テレビは、ドキュメンタリー番組のくせに嘘の内容を垂れ流している。

専門家を自称する人たちはその番組を両手を上げて大絶賛しているし、精神病者当人たちも危機感がない人ばかり。

悔しくて悔しくて、何より、さわ病院に投獄されたときに、廊下を挟んで、お互いの保護室からただただ見つめ合ったあの人に申し訳がつかなくて、苦しくて仕方がありませんでした。


私は、さわ病院がきっかけで病院全般に関するPTSDを併発しました。

2003年にさわ病院とその他数ヶ所の精神科に一時的にかかったのを最後に、その後4年間、病院や白い建物に近寄れなくなりました。

心身ともに深刻な病気や障害があって、早急に治療や療養が必要なのに、「病院」という言葉を思い浮かべるだけ、白い建物を見かけるだけで、フラッシュバックが起きてパニックになっていたのです。


2007年についに完全に限界を迎えた私は、大学院を休学するのに必要な、医師による診断書を得るために、どうしても心療内科に通院しなければならなくなり、勇気を振り絞って、ガタガタ震えながら神戸元町にある小さな心療内科のクリニックに赴きました。

体だけでなく声まで震えさせて話す私を見た医師は、初診で「極めて重度の鬱病であり、学業も就労も不可能。今すぐに長期の自宅療養が必要である」といった趣旨の診断書を書いてくれました。(その診断の仕方も如何なものかと思いますが、事がスムーズに運んだので個人的にはラッキーでした。)


このように心身ともにボロボロな状態で大学院に進学したのは、心の底から哲学がしたいから、という理由がもちろん一番大きいのですが、他にも、とりわけ医療福祉に関しての倫理的な問題は、既に現場で働いている専門家によっては解決され得ないし、また自分自身が現場で働く専門家になるだけでは解決不可能だと思ったからです。

私は、この極めて厳しい現状を変えるために、現場で“真摯に”医療福祉の仕事に従事する人の「実践理論」と純粋に学問的な「倫理的論理」の現実的な融合が、必要不可欠だと考えました。

そして、その医療福祉の喰い物にされた当事者の1人である私が、この両方を身に着けることによって、社会を変えようと強く思ってました。

私にしかできないという傲慢な想いからそう思い込んでいたわけでなく、とにかく私には、それをやる責務があると考えたのです。

私には、物心付いたときから、哲学的な問題による生きづらさと、生まれ持った性質だとしか思えない善と義務に関する倫理的衝動がありました。

現在もその思想と意志は変わっていませんし、倫理的衝動も不変のまま残っています。


2013年に、暴行されていた患者の様子をたまたま見に行った家族の告発によって、さわ病院の事件が公になりました。

当時の院長だった澤温氏は事件発覚から遅れて2018年にやっと院長を辞任。しかし、その跡を継いでさわ病院の新たな院長になったのは息子の澤滋氏。

滋氏の病院経営の方針は父親の温氏と違うのか違わないのか。疑問が残ったままです。

その澤滋氏は現在の日本精神救急学会の理事でもあり、院長を辞めた澤温氏も、2015年の日本精神救急学会学術総会の座長を務め、澤滋氏はシンポジストとして参加していました。


今でこそ、「さわ病院」で検索すると「さわ病院 やばい」「さわ病院 事件」という言葉が関連ワードとしてヒットしますが、2013年までは、ひたすら検索しまくってもさわ病院に関する悪い評判はほぼ無く、それでも執拗に根気強く隈なく検索し続けて、さわ病院から運良く退院できた元入院患者さんのクチコミ1件 と、愛媛県にあるクリニックの精神科医の「さわ病院――重篤患者製造工場」という告発ページ1件 の計2件のみ発見できて、指導教官以外にやっと真実を知っている専門家を見つけた、と独りで静かに涙を流しました。


ちなみに、さわ病院に行くように救急隊員に指示したのは精神医療福祉界隈の重鎮でありご意見番であらせられた「精神医療サバイバー」の広田和子さん。

救急車の受け入れ先が見つからず、「困ったことがあったらいつでも電話して」と携帯番号を渡されていたので私から頼らせて頂きましたが、まさか「悪徳病院の被害者で、精神医療サバイバーと自ら名乗り、日本の劣悪な精神医療の歴史と現状に詳しく、精神障害者の人権を高らかに主張する人」が、さわ病院を信じているとは思っていませんでした。


今はやっておられるか分かりませんが当時ラジオのパーソナリティもやっていた、精神医療福祉界隈では超が付く有名人。

発言力もあり、精神医療サバイバーの代名詞のように持ち上げられ、メディアや講演に引っ張りだこで、私の指導教官に依頼されて大学の講義にゲストスピーカーとして来られ、非常に威圧的な印象を持たざるを得なかったものの、恐らく「正しいこと」を言っていらした彼女。

精神科救急医療の重要性を強気な様子で熱く語っていらっしいました。


この件だけではありませんが、いくつかの体験から、私はまともだと信用できる専門家が「あの人はまともな専門家だ」と言っていても、無条件には信じないことにしたのでした。

無論、私が信用している専門家が信用できると言っていれば、信じられる可能性は他の専門家より高いのかなと感じますが、そうではなかったことも少なくないので、自分の目と耳で様々な情報を確認してから判断します。


広田さんがさわ病院信者だと分かったのは、とりあえずどんな病院だったにしろ、ひとまずは受け入れてくれる病院を紹介してくれたお礼と、救急搬送時の電話を切った後の報告を兼ねて、さわ病院を退院した日に電話でお話をしたときのこと。

「過呼吸は治まっていましたが、さわ病院で医療保護入院をして保護室に入っていました」と私が最後まで言い切る前に、広田さんは突然激高し、ヒステリックに「保護室に入れられて安全になったんだから良かったじゃないの!」などと本当に精神医療サバイバーなのかと疑いたくなる発言の数々をなさいました。

私には発言権など与えないとばかりに、言葉を遮って大声のものすごい早口で、何度も何度も必死に自己正当化しているようでした。


ひたすら責められて、私の精神ももうめちゃくちゃで、「精神医療関係者の喰い物にされてきた精神障害者の人権を高らかに謳う人」がそのような反応を示したことに混乱してしまい、私とでは広田さんはまともに会話できないのだと思って、携帯電話を父に渡して父に腰を低く低くして改めてお礼を言ってもらい、広田さんを落ち着かせてから電話を切りました。


私は、強制入院をさせられて運良く1人だけ助かってしまった罪悪感と、互いに見つめ合ったあの人を必ず助けに行くという決意と共に、メディアや精神医療福祉関係者に持ち上げられて上からしか物を言えない広田さんに、激しい怒りを覚えました。

彼女に怒りを向けるのは筋違いかもしれませんが、その後も大手の新聞で彼女の精神医療の夜間救急受け入れの必要性に関する計4つの連続コラムを読んで「あなたも奴らと同じじゃないか」と不快に思うこともありました。

でも、そのときはまださわ病院のことをほとんどの人が信じていたので、私は憤りや不快感を一切表に出さずに静かに過ごしていました。


そうして、漸く、本当に漸く、2013年に事件が公になりました。新しい被害者が出て、それが家族らに発見されて告発されたのがきっかけです。

さわ病院の化けの皮が剥がれたとき、広田さんはどう思われたのでしょうか。

私の存在や、私からお話した言葉が一瞬でも頭を過ぎったりしたのでしょうか。いえ、私のことなど忘れているでしょうね。


もし、誰かがちゃんとさわ病院の話を真剣に、対等な関わり方で聴いてくれていたら、殺人や暴行や不当な監禁の被害に遭った人たちは、もっと少なくて済んだかもしれない。

なぜ、誰も聴いてくれようとしなかった?なぜ、本当のことを冷静に話す人間を狂人扱いして迫害し、嘘を吐いて人を痛めつける者たちを盲信し崇め奉ってその者たちの味方をし続けた?

これは、広田さんに向けての訴えではなく、社会全体への訴えです。


今、広田さんをネットで軽く検索すると、2014年の画像が最新のものとして出てきて、2014年以降に書かれたと思われるコラムも見当たりません。

自身も精神医療に喰い物にされてきた身でありながら、現に精神医療に喰い物にされている若い精神障害者の話には耳を貸さない。

広田さんも重度の精神障害者ですので、問題のある言動を取ってしまうことはあると思いますが、言っている内容がとにかく、さわ病院を否定されたくない、さわ病院を信じている自分を正当化したいだけにしか聞こえず、「さわ病院を紹介してくださってありがとうございました」と父が、私が広田さんに言ったことと同じお礼を、今度は「強制入院」や「保護室」という単語なしに伝えた途端に、急にヒステリーが治まって穏やかな態度になったので、そのときから私は広田さんを真っ当な活動家としては見られなくなりました。

ミイラ取りがミイラになったというお話のように感じられますけれど、単に彼女を非難するのではなく、反面教師として、自分がそうならないように常に意識しています。


私の脳裏には、さわ病院に置き去りにしてきた同胞の、私を見つめるあの瞳が焼き付いて離れず、あのときからずっと、その眼が私に一途に向かって「なぜだ」と静かに訴えかけてくるのです。

なぜ1人で逃げ延びて、必ず助けると誓ったのに、あれから19年経った今でものうのうと安全な場所で休んで、安穏な生活を送っているんだと。


私には生まれつき善と義務に関する倫理的衝動が根付いており、それに常に突き動かされて生きてきた。

私は、あの日あの場所で、不当な扱いをされ、助けを求める者たちと出逢った。

だから、私は現状を変えるために様々な勉強や活動をやらなければならないし、やりたい。


でも、動きたいのに動けない。電車にも乗れない。人が多い場所に行けない。

電車も人混みも、私の視覚と聴覚を無力化させ、私の精神力と体力を奪い取り、意識を失くさせる。

現在の病院に転院するまでの凡そ10年間、私は薬漬けにされ、脳機能を破壊されて自分の名前も一人称も分からなくなるほどに知的能力を低下させられた。


それでも、私は自分の責務と目標のためにどうにか大学院を高成績で修了した。

授業料全額免除と奨学金を受け続けるために、どんなに苦しくても高成績を維持しなければならなかった。

それによって、幼少の頃から既に悲鳴を上げ続けていた私の心身状態は、ますます悪化して取り返しがつかなくなり、発達障害の影響も含めて今でも集中して物事に取り組むことが困難なままでいる。


精神医療福祉ならば脳機能が低下していても、私の倫理的衝動が、最低限の知識のアップロードを可能にさせている。

けれど、そのレベルでは全く足りない。

そのレベルを超えるための状況に、いつまで経っても辿り着けない。



瞳のあの人はどうなっただろうか。


閉鎖病棟にいて、唯一外部との連絡が取れる院内の公衆電話で、弁護士に対して必死に自らが被っている不当な扱いを訴えていたあの人の声は、誰かに聞き届けられたのだろうか。


私を迎えに来た父の足にすがりついて「助けてください」と哀願したという、その人は、今どうしているだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?