躁とうつ、いわゆる双極性障害について

双極性障害。またの名を躁うつ病。
ハイテンションで活動的な躁状態と、憂うつで無気力なうつ状態を繰り返す病気。

双極性障害はうつ病の一種と誤解されがちだが、実は異なる病気であり治療法や処方される薬も違う。

また、双極性障害は「心の病気」と考えられていたが、近年では「脳の病気」であるという報告(前部帯状回の体積減少など)があがっている。

日本での双極性障害の生涯有病率は、500人に1人と言われており、うつ病の100人に6人と比較すると稀有な病気である。

さらに「双極性障害患者における自殺の生涯発生率は,一般集団の15倍以上と推定されている。」という研究結果も存在し、うつ病と比較しても双極性障害は自殺率の高い病気だ。

双極性障害には、『躁』と『うつ』、そしてそれらが混ざり合う『混合』の3状態が存在する。

躁状態。それは脳内で行われる核分裂。瞬時に大量のエネルギーが生まれ、天然由来のドーパミンが大放出される。これを一度味わってしまうと、コカインが角砂糖に思えるくらいだ。

ドーパミンは私に万能感を与える。なんら後ろ盾もない虚構の自己肯定感に包まれながら、ウォルト・ホイットマンの詩が詠われる。

『わたし自身の歌』

わたしはわたしを祝福し、わたしのことを歌う。
そしてわたしがこうだと思うことを、あなたにもそう思わせてやる。
わたしの優れた原子ひとつひとつが、あなたにもそなわっているからだ。

わたしはゆったりくつろぎながら我が魂を召喚する、
わたしはゆったり寄りかかりながら剣の先のような夏草を眺める。
わたしの舌が、わたしの血の原子ひとつひとつが、この土から、この空気から作られ、ここで生まれた。そしてわたしを産んだ両親もここで生まれ、そのまた両親もここで生まれ、そのまた両親もここで生まれた、
わたしは37歳、すこぶる健康のうちに書きはじめ、死ぬまでやめないつもりだ。

もろもろの信条だの学派だのはうっちゃっておこう、
しばらくは身を引いてそのまま良しとし、もちろん忘れはしない、
とにかくどこかに身を寄せ、一か八かか喋らせるんだ、
野放図で原初のエネルギーに満ちたあの「自然」というやつに。

ウォルト・ホイットマン 1855年「草の葉」

頭の中に次々とアイデアが湧き、話し出したら止まらない。3日間一睡もせずに元気よく動き回れる。自分が全知全能に感じ、他の人間は全て堕落した能力のない存在に思える。

ただ、いくら心でそう感じても、実態は私のまま。外から見ると暴言と奇行を繰り返す変人。自分の認識と社会からの眼差しに大きな隔たりが生じ、双極性障害の人は躁状態の時に社会的信用を失い、人間関係を壊してしまう。

躁状態とは心の中に強盗を棲みつかせるもの。スイッチが入ると私の意図しない私が、愛する人や大切な物、そして私自身を奪っていく。

ある日突然、昨日までの自分がいなくなり、全くの別人になってしまい、周囲の人を困らせる。当の本人はそんなことも知らずに、万能感に浸りながら「安易な快感」、「過度な刺激」、「無謀な挑戦」を追い求め、ほとんどの人々が人生において願う「幸せな家庭」や「安定した生活」といった目標の真逆の結果を引き起こす。

正気に戻った時、全てを失った自分が立ちすくみ、荒らされた部屋を見渡している。

普通だったら「またやってしまった」と後悔の念に駆られる場面だが、双極性障害は一息つく暇を与えてくれない。

「やっと俺の出番が来たぞ」と言わんばかりの不敵な笑みを浮かべ、うつが転落を誘ってくる。そこに自我なんて存在しない。気づいたらうつの沼にどっぷり浸かっている。

うつ状態の時は、全方向から強い重力を感じ酷い倦怠感に苛まれ、ベッドから起き上がれない。身体がゆっくりと動き、やがて崩れ落ち、衰弱しつつある思考の律動と一体化する。

身体の怠さだけではない。うつの時は、解読しようのない不安と恐怖に取り憑かれる。一般的に不安とは、それを掻き立てる理由が分かっているもの。だから不安を解消するために努力できるし、誰かに相談もできる。

しかし私がうつの時に襲われる不安は、姿形も見えない抽象的概念。何を恐れているかも分からないのに、不安が心を乗っ取ってくる。

或る人の言葉を借りるなら「ぼんやりとした不安」なのかもしれない。ただ私の不安は、ぼんやりという隙も一切のバックグラウンドも見せてくれない。まるで完全悪のような存在。だからこそ対処のしようもなく気力が奪われ、虚無を感じる。

虚無は心を渇かせる。喜怒哀楽すら馬鹿らしく感じ、全てが無意味で無価値に思える。思考が虚無に取り憑かれると常に希死念慮が顔を出す。

そして、「耐え難い苦痛から解放される唯一の手段は死ぬこと」と耳元で呟いてくる。

悪魔の囁きだ。自殺を勧めてくるから?それは違う。私がそれを実行する力が残されていないと知っているのに、自殺でしか救われないと諭してくるからだ。

彼の囁きを聞くと、いつも私は「ジョニーは戦場へ行った」という映画を思い出す。

主人公のジョーは戦争によって、手足と目(視覚)、鼻(嗅覚)、口(言葉)、耳(聴覚)を失い、医者からは植物人間だと思われている。しかし彼には意識がある。

体も動かず、自分の意識に誰も気づいてくれない。そんな状況に「殺してくれ」と、ジョーはひとり訴え続けるが、彼の望みは叶わない。

作者のダルトン・トランボは、彼を「意識を持つ生きた肉塊」と表現した。うつ状態の自分がその言葉と重なる。

双極性障害はうつ病と比較しても自殺率の高い病気と紹介したが、躁状態の時は万能感に溢れ、うつ状態の時は希死念慮に包まれるが、両者ともに自殺企図には至らない。

では躁でもうつでもないなら、いつ双極性障害の人間は自殺するのか?

それは混合状態だ。

躁とうつが入り混じる混合は、躁状態なのに抑うつ気分が混じったり、うつ状態なのに活動的など心と身体が真逆に作用し合う。

例えば混合状態の時は、憂鬱さと活発性が混ざり合い、気づいたら希死念慮が自殺企図へと変わっている。

特に重苦しさもなく非常にカジュアルに、それこそJR東海のキャッチコピー「そうだ 京都、行こう。」のような感覚で、「そうだ 今日、死のう。」と自殺企図が行われてしまう。

この病気の罹患者は、自分が辿る人生の結末を他の誰よりも鮮明に認識している。そう、誰かが自分を殺すだろうと。そして、その誰かというのは他でもない自分であると。

自意識の介在しない部屋で、運命によるロシアンルーレットが行われ引き金が引かれる。

長い間、ともに暮らし、躁とうつを分かちあった私の空想は、私の死と共に、主人の体から退場していくのである。

参考文献:双極性障害(躁うつ病) - 厚生労働省
     脳科学から見た双極性障害 - すまいるナビゲーター 大塚製薬
     双極性障害 - 08. 精神障害 - MSDマニュアル プロフェッショナル版
     第16号(通巻49号)Supplement ~自殺学特集~ 平成15年(2003年) - 精神保健研究

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