泣きたくなる時、心を閉ざした時
この文章は供養だ。
………
仕事を終えて、帰宅して、チーズをかじって、公園へ向かった。
そこは数日前に見つけた、高架下にある小さな公園。滑り台と遊具とベンチがある。ベンチは、木で組まれた壇上にある。
僕は趣味で「シャンノース」というアイルランドのソロ・ダンスを踊っている。近頃は仕事帰りにふらっと1、2時間踊るのが楽しみ。
アイルランドでは木製の床で踊るのことが多いので、そのスペースを見つけたときは歓喜した。木の床は良い音が鳴るのだ。
実際に踊ってみると木と木の間に少しだけスペースがあって、多少の踊りづらさはあるものの、小気味よい音がした。10分も踊っているうちに慣れた。
そうして身体が温まってきたとき、ふいに後ろから声をかけられた。
「ちょっと、カタカタ五月蠅いから止めてくれる?」
そこには男がいた。
僕の踊っているところから数メートル離れたところに彼はいた。背後にはアパートがあったから、きっとアパートまで音が届いていたのだろう。
「高架下は音がよく響くし、そのうち誰かに怒られるかもしれないな」
と薄々感じていたので、声をかけられたときはとてもびっくりしたけれど、状況はすぐに理解できた。
反射的に「あ、はい。すみません」と答えると、彼はアパートに戻っていった。
そのとき、僕は泣きそうだった。
泣かなかったけれど、それは単に涙が流れていないというだけで、心の中では泣いていた。
僕は荷物を片付けて、そこから少し離れたところで踊ることにした。
………
エピソードはここでおしまい。
こんな風なやりとりというか、泣きそうになる瞬間が僕の人生にはわりと多い。多いって言っても、自覚できるようになったのはつい最近のことなんだけど。
このエピソードでは、
①住宅地でぼくが騒音トラブルを起こした
②住人が注意した
③ぼくがショボンとなった(´・ω・`)
という流れがあって、それは一般常識に照らせば至極当たり前の流れなんだと思う。
ちなみにそのときの時刻は19時くらい。晩ご飯時だし、電車も走っているし、「まだ大丈夫だろう」と思っていたが、読みが浅かった。
で、どうして泣きそうになったのか。要因はいくつかある。
・ダンスで楽しい時間を過ごしていたから(油断していた)
・うしろから急に声をかけられたから(ふいを突かれた)
・相手が怒っているように映ったから
・「五月蠅いから」という主観的な感情をぶつけらたから
・「やめてくれる?」という命令を見ず知らずの人に言われたから
などなど。
相手にそういった気持ちがあった訳ではないけれど、僕は敵意のようなものを受け取ってしまったのだと思う。
結果、どうしていいかわからなくなって、泣きそうになった。
大人になって、言葉と、論理と、経験をもって客観的に状況を受け止められるようになったけれど、以前はこうした他人の「意思」と「言葉」を区別して受け止めることができなかった。
今でも、適切に扱いきれていない。
もし僕が逆の立場だったら、「足音が部屋まで聞こえるので、どこか別のところで踊ってくれませんか?」ってお願いしていた。
自分の状況をできるだけ客観的に伝えて、自分が相手にどうしてほしいかを言葉にする。でも、実際は逆の流れが多い。主観的な感情を伝えて、相手に命令をする。
日常生活だけじゃなくて、仕事でも、インターネット上でも、ニュースでも、どこでも目にするよね。
でも、これは安心できるコミュニケーションじゃない気がする。ぼくだけ?そう感じるのは。
かつての僕はそんなコミュニケーションの果てに心を閉ざして、自分の気持ちにどんどん鈍感になっていったのだろうな。
ふたたび、鈍感にはなりたくない。僕は、もっと安心できるコミュニケーションがしたい。
でも、きっと、僕の知らないところで、僕自身だれかを傷つけていたりするのだろう。それは本意ではない。
どうすれば安心して同じ空間でいられるのか。
「あなたはどうしたい?」
って気軽に聞けるような、やさしい時間を過ごしたいな。
そんなおしゃべりがしたい。
Grazie per leggere. Ci vediamo. 読んでくれてありがとう。また会おう!