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僕は風景を誤読する。

算数が苦手な子どもでした。

これを自覚したのはいつだったかは覚えてないけど、まず引き算でつまづいたのは覚えています。
数字が引かれていくといくつになるのか。
13の地点から6歩下がるとどの地点になるのか。
うーん、今でも若干計算に手間取ります。

そんなわけで初めましての方は初めまして。そうでない方も初めましての感覚で読んでいただければと思います。
旅する小説家の今田ずんばあらずです。半年間くらいじっくり書いてきたエッセイを今朝脱稿しました。わあい!

というわけで、今日は誤読人間ずんばあらずの話です。

僕は数字の羅列を誤読する。

僕はよく同人イベントに参加します。そして、その都度ツイッターで告知をするんですが、二、三回に一回くらいのペースで、よく誤った告知情報を垂れ流してしまうんですよね。

特に多いのが、日付とブース番号です。どちらも数字があって、誤報を流すたびに「ああ自分数字苦手マンだな……」と嘆息するのでした。

日常生活でも数字をよく間違えることがあって、たとえば商品のJANコード(ざっくりいうと商品バーコードのこと。13桁の数字であることが多い)を間違えます。
僕はホームセンターで働いていて、納品された商品を陳列することがあるのですが、そのとき商品を間違えないようにJANの下4桁を確認するようにしています。

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で、そのJAN下4桁が「3264」であった場合、これを「3624」と見間違えることがあります。あるいは「6」を「8」と見てしまったり、「3」が「2」に見えたりすることもあります。
まあこのくらいならよくある間違いだと思われるかもしれません。
ですが、ですがですよ。
「3264」を「3212」みたいな具合で、傍から見れば「普通間違えんやろ」みたいなミスを、よくやらかすのです。
こういうミスをするときに限って、「この商品は『3212』だ!」と、ずいぶんな自信を持って陳列場所を探すので、間違いだと気づくのに時間がかかるんですよね……。

数字は、それ単体に含まれる意味が、あまりにも少ないです。
「1」は「1」でしかありませんし、「3」は「3」でしかありません。
「1」を「3」と解釈することはできませんし、「3」を「8」と読むこともできません。「1」と言ったら「1」。本来ならば、それ以外代替えするものは存在しません。

だからこそ、数字は美しいんだと思います。数字は世界共通の言語ですし、同じ数字や数式、数列、数字の羅列を見れば、誰もが同じ意味でそれを解釈することができます。
ですが、どうやら自分はこうした「意味がひとつしかないもの」「正解以外に解釈の余地がないもの」を読もうとすると、誤読しやすい性質みたいです。困ったマンです。やれやれ。

僕は連絡文書を誤読する

同じような理由で、事務的な文書も誤読しやすいです。というか、場合によってはしっかり読み取れない場合があります。

社会人になれば、当然上司からの指示事項として、なにかしらの文書が渡されることがあります。
これを手にしたとき、僕がまず、それを絵画のように眺めることからはじまります。
全体から文字をつまみとって、「どうやらこれはインターホン売場のプロモを新しくすること」らしいことはなんとなく察しがついて、いざ売場へ向かうわけですが、そのあとどうすればいいのか立ち尽くしてしまうのです。

そこでようやく「指示事項を『1』から順に読み進めていく」という当たり前のことに気がつくんですよね。
じっくり目を通すわけですが、実際作業を始めるとなると、どういうわけか「1」をすっ飛ばして「2」から始めている……。
そして「4」あたりで「1」をすっ飛ばしていると積むことが判明して、最初からやり直し、なんてこともありました。

ホント自分、ポンコツです。ポンコツだと自覚しておきながらその改善がなされない点が非常にポンコツです。

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なぜ途中を読み飛ばしてしまうのかと言えば、文字を読む際に、一文一文を区切って理解しようとするのではなくて、最初の文を読んだら、その次の文を読んでいるあいだに理解しようとしているからなのかもしれません。なにを言いたいのかを理解する前に先へ進んでしまう。

小説や評論、エッセイならばある程度それでも問題なく読み進められるでしょう。こうした文章は、言い換えや比喩、描写などで、前の文章の説明がなされていることが多いからです。
しかし連絡文書は違います。無駄をそぎ落としたスマートな文章には、言い換えも比喩も描写もありません。一文一文が勝負。じっくりと理解していく必要があるのです。ぐええ。

だから自分はサラリーマンができないのかもしれません。世のサラリーマン戦士に、僕は心の底から敬意を抱きます。

僕は小説を誤読する

前の節で小説や評論、エッセイについて触れました。
こうしたものなら「僕は誤読しないぞ」と胸を張って申せるのかと言えば、そんなことはありません。

ちょっと強引に自分語りします。

幼いころから、僕は平均的もの書きと比べ、本を読まない人だったと思っています。今も「小説を読む」という行為は(読了後のあの心地を知っていてもなお)多かれ少なかれ苦行のような感覚を抱きます。
幼いころは、今以上に苦手意識が高かったです。

ただ、高校3年生になって、大学受験のために地元の塾に通いはじめたのが好機だったんだと思います。
この塾にいた数ヶ月が、狭義の「勉強」を長く持続させた唯一の期間だったようにも思います。#話が逸れていく予感がする

この塾で僕は現代文の先生から、「志望校に合格したら、こんな読解術なんて使わずに、本なんていくらでも自由に解釈して読めばいい」と言われたことを覚えてます。
このとき、肩の荷が降りたような、そんな心地を抱きました。

読書には正解がないわけだし、もっと気楽に読んでもいいのではないかと思って、教材として使われた小説や評論を片っ端から手に入れましたね、あのとき。
このとき手に入れた作品は今でも積ん読として大切に本棚の奥にしまってあります。#読め

……とはいえ、受験勉強期間中に読んだ作品というのは、そこそこ影響があったらしく、今田ずんばあらずの「今」を形づくる源流のひとつになったことは疑いないでしょう。
(そういえばこの大学受験のひとときは面白いエピソードが凝縮されている。ずんば誕生秘話や「世界史」のとの出会い、そして巻物事件などである。機会があったらnoteで紹介したいですね)

さて本題からずれてしまいました。
僕は数字の羅列を誤読し、連絡文書を誤読する、という話でした。
では小説や評論、エッセイならば誤読しないのかといえば、そうじゃない気がします。
というのも、塾の先生が「本なんていくらでも自由に解釈して読めばいい」と話していたように、小説も評論もエッセイも、ある程度自由に読めてしまえるからです。解釈が自由にできるということは、ひっくり返して言うならば誤った読み方だってできてしまう、ということです。

「自分は絶対的に正しく読めている」とは思えるはずもない。だからと言って「正解を拾い出せない自分は愚かであり、本を読む資格などない」のかと言えば、それも違う。ここらへんで大切なのは「自分は正しく読めていないのかもしれない」と思いつつも、その「正しく読めていないのかもしれない」自分だけの解釈を、しっかり心に留めておきたいってことだと思います。
(つまりそれは、他人の誤読をも寛容になることにつながるんじゃないかと思います)

僕は数字の羅列を誤読し、連絡文書を誤読し、そして小説や評論、エッセイを誤読する。
数字や連絡文書の誤読はちょっと劣等感を抱くけど、小説や評論やエッセイの誤読はある程度許される……この「余地」が、僕個人としては大変救われるものだったりします。

もちろん、自分だけの「誤読」なのにこれを他人に押し付けるのはよくないことだと思うので、気を付けたいと思います。

……ここで締めてもいいんですが、ちょっと蛇足。

僕は風景を誤読する。

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数字の羅列を誤読し、連絡文書を誤読し、そして小説や評論、エッセイを誤読する。
僕という人間は、そんな人間なのです。
恐らく詩や俳句、和歌、ツイッターに流れる数多のツイートも、きっと無自覚に誤読していることでしょう。ここまで誤読しまくるとなると、目に映るありとあらゆるものを誤読しているんじゃないだろうかと、そう思えてきますねこれ。

だからきっと、僕は風景をも誤読するんです。
幼いころから小説を書いていて、今に至るまで実にたくさんの感想をいただいてきましたが(ホントありがとうございます)、
「情景描写がうまいね」というお褒めを、よくいただきます。

情景描写。これをうまく書く方法はよく知りませんが、自分がいい風景を見たら(あるいは語り手が見たら)、ちょっと書きたくなってしまう性分なのは自覚しています。
「もの」や「風景」がそこにある意味を、見出さざるを得なくなってしまう。真偽はともかくとして。
たぶんこれって、僕が数字の羅列や連絡文書を誤読しているのとそう大差ないことのような気がする。

僕の「誤読」で、読者が喜んでくれるのであれば、作者冥利に尽くというものです。
ただできればもう少し連絡文書をしっかり読めるような人間になりたかったです。


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