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煙草思案

近い将来、煙草という文化は消えてなくなる。
きっと令和生まれの子が成人するころには、禁煙という言葉は歴史用語に、あるいは古い建造物に刻まれたレトロな情緒漂う語句として受け入れられているかもしれない。

そんなことを思いながら、紺色の缶に入ったピースを取り、マッチを擦った。
人気のない深夜の展望台駐車場。窓の外は小雨で、葉の先から滴る雫が、車のボンネットを叩く。

慎重に空気を口に含ませ、火を煙草の先に移す。一筋の煙が立つ。マッチを振る、黒く焦げたマッチ棒を、携帯灰皿に投げ入れた。
火口を落ち着かせてから、ピースに口を付ける。八秒かけて、大さじ一杯分の煙を口に、五秒かけてゆったり鼻から煙と息を抜いた。
とろりとした、バニラを思わせる濃厚な香り。甘い芳香を感じることができて安堵する。少しでも強く息を吸いこんでしまうと、辛くて痛い煙になってしまう。

煙草で気分が落ち着くのではない。気分を落ち着かせて、嗜むのだ。無論、その香りを感じると、気分が休まるのは間違いではないのだが。

レッドリスト・嗜む者

煙草を吸う人間に対する人当たりが悪いのは知っている。紙巻き煙草がどれだけの人間の殺意を買ったか、知っている。毒ガスと呼ばれたらその通りですと頷ける。
僕は喘息持ちなので、副流煙、つまり火口から立ち上る煙を肺に入れたらたちまち呼吸困難に陥る。その煙は臭いし埃っぽいし、広範囲に撒き散らす。

僕は煙草を賛美する必要性を感じない。なぜなら煙草を嗜む人間はレッドリスト近絶滅種、絶滅危惧IA類。世界的に絶える潮流から、もはや逃れることができないからだ。
抵抗しても変わることはないだろう。喫煙は滅びる。これは喫煙者の選択でもある。甘んじて受け入れる他ない。だからこそ僕はたったひとり、誰もいない展望台の駐車場で、ひとときの味わいを楽しんでいる。

ひとり、こっそり、吐く煙を眺める光景。
ある人間が知ったら、嗤うだろうか。きっと嗤うことだろう。かつて喫煙者は映画館でも職場でも、どこでも煙を焚いていた。それが今ではひとけのない、誰の目にも触れない場所でちびりちびりとやっているのだ。
いい気味だと思うに違いない。

それでも僕は構わないと思っている。というより、僕にとっての煙草は、いつだってこうだった。ひとりで、誰もいないところで、じっくり味わう。誰とも共有せず、共有されたいとも思わず、あらゆる銘柄と向き合い、それぞれの個性を鼻腔で堪能する。

「個」のひととき。ゆったりと流れるこの時間が好きなのだ。

吸う者吸わざる者の、異なる煙観

煙草にまつわるnoteやその他の記事、動画、ルポを見るに、嗜む人とそうでない人の間で、決定的に異なる観点がある。それは臭いである。

喫煙者も非喫煙者も、火口から立つ煙が臭いのは周知の事実として認識していることだろう。どんなに丁寧に吸っても、副流煙は臭う。

僕はあまり多くの煙草を嗜んできたわけではないが、副流煙のほうが甘い香りを放つ煙草はアーク・ロイヤルの白くらいしかない。この煙草の副流煙は焼きたてのスポンジケーキを思わせる芳醇で甘くて芳ばしい香りが特徴である。煙草の煙で気分が悪くなる僕の母親も、この香りであれば好評であった。

しかし、その他ほとんどの銘柄(特に日本で主に流通する煙草)は主流煙の香りを追求こそすれ、副流煙に「生活に馴染む香り」「ご飯を台無しにしない香り」「気分が落ち着く香り」といった追及をしてこなかった。
強いて言えば「香りをなくす」方向でメビウスがある程度であろうか。このメビウスはコミュニケーションツールとして煙草を見たとき、ある種の到達点だったと思える。

主流煙は、甘い香りである。甘さを引き出すのに、適切な保湿と温度調整をし、丁寧に嗜む必要があるものもあるが、銘柄ごとに異なる甘い香りを楽しむことができる。
非喫煙者からすれば、「なにを言ってるんだ。ニコチンに脳を侵されたか」と訝しむことだろう。しかし、なにはともあれそう知覚するのである。

「紫煙」という言葉がある。あの煙は火口側からしか上らない。一方吸い口の煙はといえば、白いのである。これは多量の水蒸気が含まれているからだ。
この水蒸気が甘い香りの正体なのか、はたまた別の成分がそうさせているのかは定かでない。ただ、少なくとも吸い口側と火口側で異なるにおいであることは、非喫煙者であっても理解することはできよう。

話を元に戻す。煙草を知る人とそうでない人で、煙草の臭いという概念そのものが異なるのだ。非喫煙者にとって、その煙はうんこと例えることもできる。実際、ツイッターを眺めるとそういった悲痛な訴えを見ることができる。

僕が今吸っているピースはその最たるものだ。紫煙はひどく強烈な臭いを発する。しかし一方で、主流煙の蒸気は芳醇でたまらなくやわらかい香りがとろりと鼻を抜けていくのである。もしこの香りを誰もが知っていたら、あるいは煙草の「いま」は違うものだったのかもしれない。

滅びゆく世界にたゆたう

そう、現実は現実なのだ。このピースの香りを知る者は、心落ち着かせてピースを嗜む者の他、共有することは叶わない。

同様にセブンスターのすっきりとしたミルク・コーヒー、ホープの澄みわたった蜂蜜の匂い、ゴールデンバットのじっとりとしたラム酒香、ラッキーストライクのほろ甘いビターチョコレート、ゴロワーズのほくほくとしたポテトスープ……どれも共有することは難しいだろう。

五感を描写するにあたって、もっとも苦労するのは嗅覚である。嗅覚にまつわる単語が圧倒的に少なく、比喩を使わざるを得なくなる。だがこの比喩のおかげで、粒子ほども共有できないことがままある。マツタケの香りは、他の国だと下水の臭いに例えられることがあるらしい。

だからこそ、煙草は究極の個人的趣味嗜好なのだ。人の前で吸ってはならないものだったのだ。人の前で吸うということはそれだけで悪臭と毒ガスを撒き散らす行為であり、喫煙という文化の命を削る行いだったのだ。
しかし、悔いてももう遅い。近絶滅種、もうこの流れは止まらないし、止めることはできないし、止める必要もない。

まだ煙草を吸ったことのない人、やめた人は嗜んではいけない。煙草は害悪そのものである。微塵の利もない。滅んでしかるべき文化であり、これから我々の手で滅ぼすのだ。
自分だけの命を削り、自分だけの比喩を用いて、香りを楽しむ。そこに格好よさもコミュニケーションも介在しない。自分と自分、あるいは自分と煙草。他はなにもあってはならない。

だから僕は、誰にも迷惑をかけてはいけないし、誰と一緒に嗜んでも意味がない。ひとりきりで、孤独に、その甘美な芳香を味わう術を持っているのは自分ただ一人なのだと思って、味わうのだ。

霧立ち込めるフロントガラスの向こう側、草の陰から鈴虫の声が聞こえる。
夏の盛りが、間もなくやってくる。

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