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「生まれてきてくれてありがとう」という言葉に、違和感。

「誕生日おめでとうと言われるのは嫌なんです。歳とっておばさんになってく感じがするじゃないですか。だから誕生日が嫌いだったんですけど、『生れてきてくれてありがとう』って言われたことがあって、それで、ちょっとだけ誕生日も悪くないかなって思ったんです」

数年前に、そんな感じのことをラジオ番組のパーソナリティが言っていた。
いつものようにドライブ中のことで、そのときは「こんなふうに思う人もいるんだな」程度の感想を抱くだけであった。
でも今に至るまで心に留まりつづけているということは、自分のなかで納得いかなかったんだと思う。

というわけで、
「生まれてきてくれてありがとう」という言葉について、
考えをめぐらせていきたい。


僕は、誕生日が嫌いだ。
僕という人間に価値を抱けないことが根本的な原因であるだろうけど、まずめでたい日ではない。誰からも祝われるいわれもないし、むしろこんな人間が世に生まれ出てしまった、忌むべき日であるという認識を持っている。
両親や大切な友人(と一方的に思ってる人たち)にも祝われたくない・・・・・・・。この日は特別な日などではない。各々が各々の事情のまま過ごすものであってほしいと願っており、その各々の日々のなかに僕という異物が混じることなく明日が訪れてほしい。

どうしても祝いたいのであれば、出産記念日という名目で母を祝えばいい。にもかかわらず祝われるのは母親ではなく子のほうである。不思議でならない。「誕生日」というワードセンスのおかげでおかしなことになっているのだろう。
僕自身、自分にケーキやプレゼントなんて不必要であるし、その意味もないので、できることなら誕生日であることさえ記憶から消去して平凡な一日を過ごしたい。
僕は、誕生日が嫌いだ。

もちろん「お誕生日おめでとう」と言われたら、「ありがとうございます」と返すのが社交辞令だと弁えているので、あえて反発するようなことは言わないけれど。
ただ、内心では戸惑ってしまって仕方がない。
おそらく祝いごととは、ともあれ祝いたい人が祝うことが重要なのであって、祝われる当人の考えなんてどうでもいいのだろう。
だから祝われたらデコイとなって相手が満足するのを待つ。祝いの場が設けられたら、お開きになるまで「主役」でいる。そのくらいの常識はあるが、やはり戸惑いの念は強い。
どうして年に一回も、なにもしてないのに自らが「主役」となる機会があるのだろう。その日が近づく足音が聞こえてる頃合いになると、怖くて仕方がなくなる。

「生まれてきてくれてありがとう」
……この祝辞の初出は不明であるし、初出があったとしても歪曲して広まった可能性もあるだろう。
さておき、当人の存在そのものを全肯定するための口実として便利だから、それなりに広まったのだと思う。
それなりで留まっているのは、この感謝の言葉に少なからず違和感を覚える人が僕以外にもいるからかもしれない。

確かに、どれだけ当人に褒める箇所、肯定すべき点がなかろうと、生れ出てきた事実は否定のしようがない。ここを指摘され、感謝されては、「はあ、どうも」としか言いようがなくなる。
しかしこの言葉を何度聞いても、僕は素直に喜ぶことができない。
疑心暗鬼が働いて「この人は本当に僕の出生を喜んでくれているのだろうか。それとも、この言葉をただ口にしたいだけなのではないだろうか。ちょっとエモっぽさがあるし、死ぬ前に一度言ってみたい言葉リストの中の下段付近に記されてるから、ちょうどいい機会だし口走ってやって、そんで気持ちよくなりたいだけなのではないだろうか」と訝しんでしまう。

まあ、言うだけ言って勝手に気持ちよくなってくれる分には構わない。君にとってサンドバック程度の価値が僕にはあったというわけだし。
けれども善意のボディブローを喰らえば、僕だってどうしても考えてしまう。

僕は別に君のために生まれたわけじゃないし、まして自分のために生まれたわけでもないのだ。
僕が生まれたのは、システマチックに細胞分裂した結果なだけだ。
もし本当に「生まれてきてくれてありがとう」と、そう思ってるんなら、生まれた直後に言ってほしい。言われたところで僕は覚えちゃいないだろうが、だとしてもどうして何十年も経ったあとで、そんな大昔のことを感謝されなきゃいけないのか分からない。

なんてことを書いたら、「なんて薄情者だ」と思われるかもしれない。いや、ここまで読んでくれるよりもっと前、「両親や大切な友人にも祝われたくない・・・・・・・」あたりで近い嫌悪感を抱いていることだろう。
とにかく、祝われるだけありがたいと思え、とお叱りを受けてもいい話だ。

感謝を伝えるとき、言葉の意味より気持ちが大事であることは重々承知している。
承知したうえで、やはり違和感、なのだ。

本気で大切にしたい相手と出会ったら(多分、出会えてもそこまでの関係に行きつける気がしないけど)、また違うのかもしれない。
確かに、生まれてきてくれたからこそ、その相手と僕は出会えた。その相手と出会えなければ、僕は孤独に苦しみ、生きることに意味を見いだせず、かといって死ぬことにも意味を見いだすことはなく、宙ぶらりんの日々を漫然と過ごすだけの人間になっていることだろう。

だけど、そのとき相手に思うのは、(今日も)一緒にいてくれてありがとう」であるような気がする。
すごくありきたりだけど、でも、ずっとしっくりくる。なにより事実だ。

どうしても「生まれてきてくれてありがとう」に類することを伝えなければならないのだとしたら、大切にしたい相手の母親に対して「生んでくださりありがとうございます」と言うだろう。
でも、直接そう口にするかと言えば、しない。
というか失礼だし、非常識な人間だと思われそうな気がする。
冗談を言い合える間柄ならまだしも、普通は「(大切なその人を)生んだ」ことに感謝するのではなくて、「育てた」ことに感謝をするものなのではないかと思う。
異論はあると思うし、語弊があるとも思う。
ただ少なくとも自分にとっては、
「(大切なその人を今まで)育てて下さりありがとうございます」
こっちのほうが、中身が伴った言葉として相手に伝えられるように思う。

そう考えると、「生まれてきてくれてありがとう」は、ある意味でその人の人生を否定する言い方であるようにも感じられる。
そもそも生まれた瞬間というのは多くの人にとって物心つくまえのことだ。
子宮のなかにいたときのことを覚えてる人もいるらしいし、もしそんな君から言われたとしたら「生まれてきてくれてありがとう」に特別な意味を覚えるかもしれない。

ただ少なくとも僕は子宮のなかにいたころを知らないし、思い返せば、知らぬ間にここにいた、という感じで、なんかいつの間にか生きていたのだ。
(自分が覚えている一番古い記憶は、家のリビングで、母に髪を切ってもらってる記憶だ。その後の記憶から推測するに3歳の頃だ)

世界に放り投げられた状態から、言われるがまま、なすがまま、ときに自分の意思で行動し、経験を積み重ね、叱られ、取っ組み合いをし、そして今に至る。
そこに僕自身が生まれたことはどうでもよいし、どちらかと言えば一種の「謎」であり、この謎は永遠に謎として付きまとう。
出産する、あるいは出産に立ち会うことで、追体験することはできるだろうが、謎は謎だ。
関係者全員口が堅いから洩れ出ていないだけで、もしかしたら「天上天下」云々と抜かしながら出てきたのかもしれないし、世界は実は5分前にはじまったばかりなのかもしれない。

出生は僕にとって謎であるが、これが謎ではない人種がいる。それは両親である。
両親だけが、僕の出生の謎を知っている。だから「生まれてきてくれてありがとう」と言われても、違和感なくしっくり入ってくる。
それと出産に立ち会った助産師も僕の出生を知っているかもしれないので、同様のことを言われてもまあ分からんでもない。併せて客観的な苦労話を聞かされたら、それはそれでありがたいと思うし。
まあでも、少なからず違和感はありそうな気がする。

一方で(僕にとっては生みの親とイコールであるが)育ての親から言われたら、とても馴染んでくれる。
多分、少し泣く。
お前が生まれたから、私たちは育てることができたんだ、という意味になるし、自分が生んだわけでもないのにあえてこの言葉を使うあたり、「特別」を感じる。

それが、友人や恋人からの「生まれてきてくれてありがとう」に違和感を覚えるのはどうしてだろう。
育ての親の文脈が成り立つのなら、「お前が生まれたから友達になれたんだ」がしっくり来てもいいはずなのに、どうしてか素直にうなずけない。
しばし考えを巡らせて思い至ったのは、生まれることと育てることは地続きであるが、友達や恋人の関係性とは地続きでないからなのではないだろうか。

自分が二十歳を過ぎたあたりで親が再婚したとして、その再婚相手から「生まれてきてくれてありがとう」などと言われたら、
「他人のクセによくもまあ」と胸中穏やかでなくなる気がする。

そんな自分事になれないことを感謝されたとしても、ただ戸惑うだけだ。
自分事になれないことを感謝されることもさることながら、数多ある謝辞のなかで、どうして「それ」を選んだのだろう、という疑問もさらに戸惑いを加速させる。
僕の原点にまで遡ってくれているのだとすれば、それは確かにありがたいことであるが、個人的には遡るのは出生までではなくて、物心ついた頃程度が丁度いい。

僕は、基本的に祝われることが嫌いだ。
感謝されることもあまり好きではない。
祝うほどの価値がある人間だとは思えないし、感謝されるような行いの大体は、自分が安寧のなかで暮らせるよう努めるための処世術であり、つまり君のためではなく自分のための所業だ。
そういう人間だから、感謝や祝辞を聞かされても、それはその人にとっての処世術であり、本心から出たものではないと理解している。
そういう意味では、本心でない感謝や祝辞は、理由が見え透いてる分安心できる。

では逆に、本心からの感謝と感じつつ、嬉しいと思える言葉はなんだろうか。

色々と考えてみて、ふと思い立ったのが、
「いてくれてありがとう」
である。

あまりに語呂が悪い。歯抜けた感が否めない。実際に言われたとして、聞き慣れない言い回し故に訊き返してしまうだろう。こんなふうに他人を言祝ぐ人間がいてたまるものか。
けれど、だからこそ、こんな耳障りの悪い言葉を口にするということは、恥を忍ぶ勇気が必要である。
「いてくれてありがとう」という字面に感銘を受けるのではなく、そのなかにある心が察せられるから、本心から出てきたものだと感じられる。

字面に感銘を云々と書いたが、当然のことながら、その場を離れたあとで、その言葉の意味を考えることになる。
「一緒にいて」でも「ここにいて」でもない。
なんの前提もなく、ただただ「いる」ことに感謝される。
否定の余地がない。僕は「はあ、どうも」としか返答のしようがない。
なぜただ「いる」だけで感謝されるのかという疑問を拭い去ることはできないし、戸惑いもするのだが、少なくとも「生まれてきてくれてありがとう」と言われたときに感じた違和感はない。
理屈の上でその人にとって僕は「いる」だけで感謝されるだけの人間なのだと分かる。
もしかすると僕は、この人にとっては大切な人間だと認識されているのかもしれない。
気恥ずかしいと感じる。あるいはこれが嬉しいという感情なのかもしれない。

が、当然のことながら、こんなことを言葉にできる人なんているはずもない。おしゃべりというものは修辞を重ねてしまう(このnoteも公開してから2度3度加筆している)。シンプルなものほど伝えるのは難しい。
こんなことをサッと言える人は、事前に言葉を用意してきた人間か、「一緒に」の部分をつっかえた人間か、このnoteを読んだ人間に限られる。

僕にできるのはせいぜい「一緒にいてくれてありがとう」という本心からの言葉とも、社交辞令ともとれる言葉を伝えることくらいだ。
君にこの言葉を言ったところで、本心からのものだと信じてくれないだろうし、多分逆も同じだ。
オオカミ少年の声が村人に届かないように、村人の声もまた、オオカミ少年の耳には捻じ曲げられて入ってしまうのだろう。

自己嫌悪は今に始まったことではない。
オオカミに喰われるまで、祝われることも感謝もされず、ひっそり息をひそめるのが精神衛生上好ましいだろう。

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