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無敵の人を救い、ひいては絶望に浸る人々を救うための探究序説、その思索

無敵の人とは、意図的であれ偶然であれ、社会から孤立した(あるいはそう信じて疑わなくなった)者が選ぶ、二者択一のうちの、自殺ではないほうのおこないである。
社会的に失うものがなにひとつとしてないがために、躊躇いなく、むしろ犯罪を起こすことそれ自体に希望を見出し、実践する者である。

集団を排除してもそこに活路は一切ない。
むしろ、排除することは彼らの決断を助長する行為であり、協力者である。


そして無敵の人は、裁かれることに希望を見いだす。
裁かれ、そして死に至ることに救いを抱く。
自らは自らの手で死ぬにはあまりに無価値なため、世間の手によって、徹底的に殺されることを望む。

自分の名を歴史に刻むことを願う無敵の人も少なくないだろうが、たとえばローマがおこなったような記録抹殺刑を敷いたとしても、無敵の人が自暴自棄になり殺戮することを止められはしないだろう。
彼らは究極的には死を望んでいるのであって、歴史に名を刻むことは副産物、あるいはオマケ程度の意味合いしかない。
故に、我々が執るべき未来は、無敵の人を真の意味で救うこと以外にない。

そして無敵の人を救うということは、社会から孤立し、絶望し、自ら死を選ぼうとする多くの同志(無敵の人となることを選択しなかった人々)を救うことにもなりうる。


無敵の人が計画を実行に移すことは、胞子に例えられる。
その行いによって胞子は撒き散らされ、さらなる無敵の人が萌芽する。
彼らに一貫した主義主張はない。
あるとするならば、自らの死を切に望む、その一点だけである。

ゆえに、ある団体を排除したり、凶器の入手を難しくするなどの処置をとったところで、なんの効果もない。
無敵の人は全身全霊をとして規制を掻い潜り計画を実行へ移す。
いかに自殺を喰い止めようと努めても首を吊るなり投身するなり服毒するなり感電するなりすることと同じである。本気で自らが自らを殺すと決めたものは、道具に頼らずとも殺すことができる。
だからこそ真の意味での救いとは、規制や排除ではない。
思考であり思想であり哲学なのではないか。

国の支援を期待するのもお門違いである。
むしろ国の支援は後追いである。
つまり我々が一種の哲学、無敵の人を真に救う哲学を構築したのち、これを元にした処置を検討するものである。


語弊をおそれずいうならば、死刑とはすなわち世間から死ぬことを許されることでもある。
当然世間一般の感覚からすれば反感を抱く考え方であるが、自ら手を下さず、また他者に罪を負わせることなく自身を死に至らしめる、ある意味唯一の方法である。

ここで僕は、死刑について反対を表明するわけでも、あるいは賛美するわけでもない。
仮にこれを終身刑と言い換えたとしても、同様のことが言えるだろう。
これ以上なにかを成さずとも死を約束された時点で、無敵の人が抱える苦しみを取り除くことができるからである。

死をもってその罪を償うことは、無敵の人にとって救済となりうる。
しかしこれを唯一の救いの道と結論付けるのは尚早かと思える。
いや、尚早と考えたいだけの、単なる願望かもしれない。
死が唯一の救いと断ずれば、自らの死を望む人の唯一の希望が、死、それのみとなるからである。

僕はここで思考を止めたくない。
ここで思考を止め、無敵の人に対して冷笑する人を多く見てきた。
彼らはおそらく、無敵の人と自らとでは、別の人間、別の人種、別の生命体とでも思っているのかもしれない。
しかしその冷笑はあまりに危険であるように思えてならない。
無敵の人によって社会が破滅することを望んでいるのではないかとさえ思う。
あるいは我々には無敵の人にかまうほどの余裕なんてないのかもしれない。
おそらくそれが本心なのだろう。
僕らは、自身の日々を過ごすことで精一杯なのだ。
誰とも知らない人間の孤独や企みなど、実生活において直ちに影響するものではないのだ。
だからこそ冷笑などというグロテスクなおこないを、呼吸でもするように茶の間でしてやれるのだ。
マイノリティに考慮などと言ってる口で冷笑などする人が、もしいるのだとしたら、僕はとても、とても哀しい気持ちになる。

さて、彼らを救う究極的な方法は、死に至ることである。
まずはこれを大前提として受け止める必要がある。
決して、賛美でも推奨でもない。
彼らを救う方法を考察した結果、最終的な受け皿が死であるということを述べているに過ぎない。

これは僕自身にとって切実な話で、死のほかに救済する方法がなければ、僕はもはや死を選ぶほかにないのだ。
故に僕は探究する。
無敵の人を救い、ひいては絶望に浸る人々を救うには、どうすればよいのか。


無敵の人、希死念慮者にとっての救いは三つある。
第一に他者との関わり、第二に信仰、そして行き詰まった結果の死である。

彼らを救うのは、その多くが他者との関わりである。
こじれることもあるし、面倒なことも多々あるが、関係性というのはそれだけでギリギリのところで留まることができる。
かくいう僕も、今なおこうして死なずにいるのは他者との関わりがあるからなのだろう。
しかし関わりは容易に断つことができる。死を望むなら尚更、他者ほどどうでもいいものはない。
ある人は、愛や他者に希望を見出だすことで、生を受け入れることができるかもしれない。
しかし、他者を求めてなお、他者と深く密接に交わることのできない人もいる。

愛は容易く人を救えるのだ。
だからこそ、愛によって救われない人々は、あまりに虚しすぎる。
頑なさが自らを死に至らしめるのだろうかとすら思える。


第二は信仰である。
特定の宗派などではなく、生きることを自ら肯定することができれば、それは救いとなる。
絶望した者が、いかなる方法で「救い」に至るかは別としても、自らを転換させるのは自分自身である。
神や仏や愛する人や隣人や尊敬する人があなたの自殺を止めるのではない。
神や仏や愛する人や隣人や尊敬する人に影響を受けたあなた自身が、自ら殺すことをやめるのだ。
故に信仰とは、自分自身である。

しかし同時に絶望した者は、確固たるひとつの信仰を抱えている。
それは死すれば救われるという信仰である。
今まさに実践しようとする者の、この確固たる信仰をも上回る「生」の肯定は、困難を極めるだろう。


前二つからあぶれた者が、最後の死に希望を託す。
無敵の人は罪を犯すことで第三者の手で自らを殺し、希死念慮者は自らが殺す。

自らを殺すか、あるいはテロリズム的行いを実施する前に、信仰や他者との関係性の構築を図る。
これが無敵の人を救い、ひいては絶望に浸る人々を救うための方法となるわけであるが、他人の心を動かすというのは容易なものではない。
絶望する者の心を、となるとなおさらであることは言うまでもないが、だからと言って思考停止し冷笑するのは誰だってできる。

無敵の人を救済するためには、まず無敵の人の生き様を学ぶ必要がある。
彼らの生涯を描くノンフィクションは巷に溢れている。
まずはその本を手に取ることから始める必要がある。
また、同時進行的に自殺者の手記も読む必要があろう。
両者は背中合わせ、表裏一体であり、彼らの言行、感性、思考、嗜好諸々は、僕らに大切なものを語ってくれるように思えてならない。

加えて、これは実に個人的な感想であるが、両者の一挙手一投足は、あるかもしれない未来であるかもしれないことは肝に命じておくべきだろう。
故に、彼らの言行録を読むに辺り、畏敬の念をもって接していくことにする。


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