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JOG(176) 明石元二郎 ~ 帝政ロシアからの解放者

 レーニンは「日本の明石大佐には、感謝状を出したいほどだ」と言った。


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■1.レーニンと明石■

「レーニンさん! 私はあなたを見そこなっていましたぞ!」 

陸軍大佐・明石元二郎はこう言い切った。明治37(1904)年∂秋、場所はスイス・ジュネーブの労働者向け住宅街の一角。ロシア民権社会党の幹部、そして後のソ連邦の創設者レーニンはここに潜伏して、各国反露活動家の中心的存在となっていた。

 日露戦争の最中で、来年2月にはバルチック艦隊が極東に到着する。それまでに何としてもペテルブルグで過激派の反乱を起こして、ロシア軍のかなりの部分を後方に釘付けにし、国内に反戦機運を醸成したい。そのためにはレーニンを動かさねばならない。

 しかし、レーニンは戦争の相手国・日本から援助を受けたら、ロシア民衆から非難されるのではないか、とためらっていたのである。 

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 あなたはロシアの帝国主義に侵略された人々を糾合して、ロシアに革命を起こして、社会主義の国を建設しようとしている。私は日本の自衛のために、ロシアに対する戦争を支援しようとしている。どちらもペテルブルグの政府を倒すという目的では同じではありませんか?
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 レーニンは煙草に火をつけようとしたが、マッチを持つ手がふるえて、火は消えた。レーニンは狼狽していた。これほど言いたいことを言う男に会ったのは初めてだ。結局、レーニンは極秘のうちに明石の援助を受けることを承知し、10月に開かれる反露活動家大会への協力を約束した。 

 明石の反露活動支援はレーニンをして「日本の明石大佐には、感謝状を出したいほどだ」と言わしめるほどの影響力を発揮していく。

■2.日本の勝利を祈る■

 この年の2月5日、日露は国交断絶となり、明石を含むペテルブルグの日本公使館員はスウェーデンのストックホルムに移ることになった。2月22日、公使団がストックホルム駅に着くと、民衆の歓迎は異常なほどであった。スウェーデン王オスカル2世も、南の離宮に移るのをわざわざ延期して、日本公使に会い、堅い握手をして「いまは多くをいわぬ、ただ日本の勝利を祈る」と言った。18世紀末にロシアとの戦争に敗れたスウェーデンは、フィンランドを奪われ、それ以来、ロシアの威圧下にあったのである。   

 当時のストックホルムは北欧の反露活動の中心地であった。明石は、早速、活動を開始した。ストックホルムの旧市街はバルト海に面したスターデン島という小さな島にあり、中世の狭い曲がりくねった石畳の道が上り下りしながら続いている。その一角に住むフィンランド憲法党党首カストレンのアパートを訪ねた。フィンランド革命党党首シリヤクスも一緒である。 

 カストレンの個室に入った明石は驚いた。明治天皇の肖像が掲げられている。明石が理由を聞くと、こう答えた。 

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 われわれフィンランド人は、この皇帝を尊敬しています。東洋の一島国日本をして、巨大な清国を圧倒せしめ、日本の近代化を実現し、世界の一流国に仕立て上げました。かつわれわれの宿敵であるロシアと戦うまでに国力をつけてきたのです。
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 フィンランドは、残念ながらロシアの属国です。しかし、日本はそうならずに、堂々と戦っています。われわれは、この皇帝を尊敬し、日本の勝利をいのるのみです。

 明石から資金提供を受けた二人は、欧州各国の反露活動家と連絡をとりあった。明石がレーニンを訪ねたのも、シリヤクスからの紹介である。

■3.各地の反ロシア活動■

 シリヤクスはまた、ポーランド国民党総裁のドモスキーの話を伝えた。ポーランド王国はかつてロシアと東ヨーロッパの覇権を争う宿敵だったが、1772年から95年に至るプロシアとロシアの共謀による分割により、国家としては消滅していた。 

 満洲にいるロシア軍にはポーランド人もたくさんいるので、ドモスキーの名で反戦のビラを撒けば、効果があるという。明石はこの案を、満洲軍参謀本部に伝えると、6月には実行され、ロシア軍の士気喪失に役だった。 

 明石がシリヤクスを後押しして計画している10月1日の反ロシア勢力の集会前に、南のキエフ、黒海に臨むオデッサで、反ロシアの暴動が起こった。これらは明石自身がルーマニアの首都ブカレストや、コンスタンチノープルを廻って、反露活動勢力に資金援助をしてきた結果であった。 

 ルーマニアは北部のベサラビアをロシアに奪われ、同地出身のルーマニア人が、祖国復帰を願って、反露活動を展開していた。コンスタンチノープルは、ロシアの宿敵トルコ領で、農奴生活を嫌って逃亡したロシア農民や、革命運動で追放されたロシア人学生などが住んでいる。さらにはロシアの侵略で土地を奪われたり、肉親を殺されたトルコ人も多い。明石はこれらの人々に会って、暴動、テロなどの計画を聞き、資金援助をしてきたのである。ロシアの帝国主義は、国内外で多くの人民を抑圧し、あちこちに敵を作りだしていた。  

■4.反ロシア勢力の大会開かる■


 10月1日の反露活動家の大会をめざし、明石とシリヤクスは精力的に各地の活動組織に接触し、参加を呼びかけていった。アルメニア社会党、グルジア社会党、ロシアの革命党、自由党、ユダヤ社会党、等々。

 反露活動大会は10月1日から5日間にわたって、パリで開かれた。シリヤクスが議長となり、明石もオブザーバーとして出席した。レーニンこそ仇敵革命党との同席を嫌って参加しなかったが、多くの党派の幹部が出席した。そして、暗殺、テロ、ストライキ、デモ、ロシア軍の動員妨害、反戦運動など、各党の得意な戦術を展開することが決められ、明石はその詳細を聞いて、それぞれの党に十分な資金を提供した。

 10月中旬以降、ポーランドでは社会党の指揮する大がかりなストライキが頻発して、ロシア軍が派遣されるまでになった。明石から資金提供を受けたレーニンの民権社会党も、ペテルブルグで、暗殺や工場のサボタージュを頻発させ、11月から翌年の1月にかけては、ロシア全土も騒然としてきた。

 ロシア暦1月6日のキリスト洗礼祭では、冬宮のネバ河対岸から21発の礼砲が発射されたが、そのうちの1発が実弾に変えられており、冬宮上空で炸裂して、散弾の破片が降り注いだ。ガラス窓が割れ、女官たちが悲鳴を上げた。皇帝も驚いたが、無事であった。これは大阪城冬の陣で家康が本丸に大砲を打ち込み、淀君を脅かして講和にもちこんだ、という故事にヒントを得て、明石がロシア革命党に指示し、軍隊内の党員が実施したものであった。

■5.血の日曜日■

 砲撃の3日後の1月9日、今度は数万の労働者が、待遇改善を求めて冬宮への大行進を開始した。先頭に立つのはガボンという神父だった。彼は「ロシア正教最高の司祭者であるロマノフ皇帝は、決して民衆の幸福を忘れてはいない。民衆が直接、皇帝に会って、苦境を直訴すれば、皇帝はかならず理解してくれるに違いない」と述べ、皇帝への直訴状を高く掲げて群衆の先頭に立った。群衆は賛美歌を合唱しながら、後に続く。

 歩兵1万2千、コザック騎兵3千が空砲で威嚇したが、群衆は冬宮の前につめかける。コザックの部隊長が突撃を命ずると、騎兵たちは馬上から剣をふるって、群衆の中に斬り込んだ。数百人の死傷者が出て、冬宮の前の雪が赤く染まった。ロシア革命の前奏曲となった「血の日曜日」事件である。

 事件を伝える新聞記事をストックホルムの安宿で読んだ明石は、とうとうやったか、とほくそ笑んだ。この事件の前に明石はモンゴル人になりすまして、ペテルブルグに潜入し、社会革命党の幹部とガボン神父に会っていた。「革命は成功する。神は私に民衆の犠牲になるようお命じになった。」と言うガボン神父にかなりの金額を渡していたのである。

 この事件で負傷したガボン神父は、一躍、反ロシア帝政運動の英雄となり、各地を遊説して廻り、活動家としての名声を高めていった。

 行進の際に、負傷して倒れた一人の職工は、「ああ、ここに日本軍の一個大隊でもいてくれたら、こんな惨めな死に方はしねえぞ!」と叫んだという。反ロシア勢力の間で日本の人気は高まる一方であった。

■6.全国に拡がる暴動■

 「血の日曜日」事件の3週間ほど後、宮廷の有力者セルゲイ大公が暗殺された。セルゲイはアレクサンドラ皇后の姉エリザベスの夫で、若いころ、ニコライ皇帝の後見役をもって自任していた。優柔不断の皇帝よりも専制的、高圧的な存在と言われていた。

 そのセルゲイ大公が、自宅から馬車で外出しようとした所を、爆弾を投げつけられ、その肉体は四散した。下手人は社会革命党で暗殺専門のグループを指揮するデカノージーで、明石ともすでに面識があった。このグループは皇帝の乗った列車を爆弾で転覆させることにも成功したが、皇帝はかすり傷を負っただけだった。しかし、宮廷はあいつぐテロの恐怖に襲われていた。

 大公の死によって、ロシア全土に民衆の暴動が起こった。オデッサでは港湾労働者のストが続き、近くのセバストポリでも黒海艦隊の水兵8千人が暴動を起こし、海軍工廠を焼いた。鎮圧のために派遣された軍隊も、民衆への発砲を拒否した。全国の大学では、反戦、反ロシア帝政の演説会が毎日のように開かれた。

■7.日本人が悪魔退治の応援をしてくれている■

 4月下旬、反ロシア帝政勢力の第2回大会がジュネーブで開かれた。議長はロシア社会革命党の老女性元老プレシュロフスカヤ。彼女は明石の活動をこう評していた。

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 私たちはロシア民族のために、現ロシア政府という悪魔と数十年戦ってきたが、何一つ満足な打撃を与えたことがない。それなのに、ロシアの敵であるはずの日本人が、われわれに力をかして、悪魔退治の応援をしてくれている。まことに恥ずかしい話だ。
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 この会議の最中に、満洲のロシア軍が奉天で負けたという報も入り、帝政打倒ももう一息というムードが盛り上がった。会議では、ロシア皇帝を暗殺して、ロマノフ王朝を抹殺し、社会革命党はロシアに独立自治の政体を確立し、各州は連邦制度を布く。またフィンランドとポーランドは独立する、という画期的なロシア帝政処分案を発表して、世界的なセンセーションを巻き起こした。

■8.ロシア全土に■

 5月28日、日本海海戦で日本海軍はバルチック艦隊を潰滅させ、参謀本部からは対露講和を進めるために、いっそうロシア国内の社会的不安を増大せしめよ、という指令が明石に下った。明石は、セルゲイ大公暗殺の立て役者デカノージーにオデッサで暴動を起こすよう指示した。

 6月29日、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで下士官兵の反乱が起こった。デカノージーの部下2名が水兵になりすまして、扇動したのである。これが後にエイゼンシュテイン監督により映画化されて有名になる「戦艦ポチョムキンの反乱」である。同時にデカノージーは陸上で呼応し、壮絶な市街戦が行われた。

 明石はスイスの商人から小銃5万挺を購入し、ペテルブルグ、モスクワ、ヘルシンキなどに送り込んだ。ペテルブルグでは、冬宮前で市街戦が行われ、ガボン神父がリーダーらしい、という情報が入った。ヘルシンキではフィンランド憲政党、急進党がロシア提督の官邸を占領して、フィンランド国旗をあげた。バルト海沿岸、コーカサス地方、モスクワ、ポーランドなど、ハチの巣をつついたようにロシア全土に暴動、反乱が広まった。その火は、日露の講和条約が9月5日に結ばれても、ますます燃えさかるばかりであった。

■9.帝政ロシアからの解放闘争■ 

明石が任された機密費は総額10万円、現在の貨幣価値にして100億円を超える。明石は活動家にはふんだんに資金提供したが、宿や食事など自らのためには出費を惜み、3割の資金を戦争後に返却した。

 明石の謀略活動は、世界史的に見ても最も成功したものの一つであろう。それは日露戦争の勝利に貢献しただけではない。第一次ロシア革命を起爆し、そのエネルギーが1917年の第二次ロシア革命で遂に帝政打倒を実現した。

 当時のロシアの帝政は内に多くの民族を隷従させ、外にフィンランド、ポーランド、バルト3国などを属国とし、さらに日本やスウェーデン、ルーマニア、トルコなど周辺諸国を威圧していた。日露戦争と、明石の支援した反帝政活動は、ロシア内外の諸民族の独立解放運動として、一括することが出来よう。

 日本はその旗手として、日露戦争を戦ったのである。幸い、フィンランド、ポーランド、バルト3国は、第二次ロシア革命の機を逃さず、悲願の独立を遂げた。しかし革命後に成立したソ連は再び膨張主義国家として、内外諸民族に重くのしかかっていくのである。

(文責・伊勢雅臣)

■リンク■

a.JOG(0007)国際派日本人に問われるIdentity 中国の国父孫文:ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。アジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります。

b.JOG(0117) フィンランド、独立への苦闘 ヒットラーのドイツとスターリンのソ連にはさまれ、フィンランドは孤立した。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1.「情報将軍 明石元二郎」★★、豊田穣、光文社NF文庫

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■成田さん(ヘルシンキ在住)より こちらへ来るまで私も他の多くの日本人と同じようにアメリカ=一番正しい国(?)と勘違いしていました。しかし、日本を離れていろいろな国籍の人々と会ううち、自分が今まで受けてきた教育、また日本人の考え方等などに疑問を感じるようになりました。それまでは米国がすることがすべて正しく、日本が戦争中行ったことが恥ずかしいと思うよう、どうやらパターンとして刷り込まれていたように感じるようになりました。 また、こちらへきてから、多くの国の方が日本に対して良い印象を持っていることに感激しました。 今は「国のためなんか古いよ」という若者があまりに多いのに残念でなりません。「日本のため=日本人一人一人の幸せのため」と気付いてほしいものです。■

編集長・伊勢雅臣より

「フィンランドと日本は隣国である。間には1つしか国がない。」という親日感あふれるジョークを、私もヘルシンキで聞きました。

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