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普通が、嬉しくて、幸せだった (休職エッセイ)

 この話をしたら、自分は泣きだすかもしれない。

 悲しみのドアを開いてしまうと、涙の洪水が溢れて、止まらなくなるかもしれない。そんな不安は杞憂に終わった。

 久しぶりに会った友達に、どこから、何を話すべきか、わからなかった。

 思いついた順番から話していったが、三時間も話せば言いたかったことは全部隈なく話した気がする。コーヒーも二杯も飲んでしまった。なかなか良い居心地のカフェだった。



 やばいね。その一言で救われる。

 だってあのとき、必死で訴えているのに誰も反応しなかった。

 あいつだって、ごめんねの一言もない。それどころか、彼の脳内は自分に都合よく映っていて、書き変わっているようだった。普通の上司ならこういう言動をするだろうという、普通の感覚を友達に肯定してもらえて、ようやく今日、報われた気持ちになった。


 普通のことを享受していないと、普通のことをしてもらえたときに、心底幸せな気持ちになる。やはり頭のおかしい人間を自分の周りにおくべきではない。そんな人間がいる場所からは、即刻立ち退いていくべきだ。


 会社を離れていたのは、自分の脳が正常だったからだ。自分の感覚が歪んでしまう前に決断したのは正解だった。追いやられたように休職したが、これでよかったのだ。
 死んだ顔をしてまで働きたくない。


 なんのために働いているかも、何のために価値があるかもわからないことのために、自分を犠牲にする必要はない。半世紀前の戦争でそれを学んだはずなのに、なぜか私たちのDNAには白旗をあげるぐらいなら自決しろというべき根性が備わっている。そんな民族は、世界中を見ても稀有だろう。
 誰かのために生きるのではない。自分のために生きなくてはいけない。


 家族のために働いたとしても、家族が望んでいることは、自分の笑顔であることも、決して忘れないでほしい。

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