見出し画像

「義侠の相場師」 その悲劇と犠牲を辿る-中之島公会堂の背後にある物語

大阪市中之島の象徴、中央公会堂。その背後には悲劇と犠牲が満ち、主役は「義侠の相場師」岩本栄之助氏と呼ばれる人物。彼は名だたる株式ブローカーで、自己の巨額の私財を公会堂の建設に捧げたが、完成を目の当たりにすることは叶わなかった。


岩本栄之助氏は、大阪市南区(現‧中央区)で生まれた両替商の息子で、日露戦争の後、大阪証券取引所のブローカーとして成功を収めました。1906年、戦争終結が引き金となり株式市場は熱狂。多くのブローカーは株価が下落することを予見し、売りに出ました。しかし、株価は急上昇を続け、これらのブローカーは破綻の危機に直面。結局、彼らは購入を続けていた岩本氏に助けを求め、売却に転じて株価を下げるよう頼みました。岩本氏はこれに快く応じ、"これは、私たち家族を長年支えてくれた人々への恩返しです。"と語った。結果として株価は急落し、ブローカーたちは破綻の危機を免れ、岩本氏自身も大きな利益を得ました。

岩本氏の心には常に公共事業への情熱が燃えていました。1909年、「渡米実業団」に参加し、アメリカで富裕層が自身の財産や遺産を慈善や公共事業に投資する姿に心を打たれ、大阪にどこにも負けない大ホールを建設するという決意を固めました。父親の死後、岩本氏は直ちに帰国し、自身と父親の財産全て、合計で100万円(現在の価値で数十億円に相当)を寄付しました。この大金は最終的に公会堂の建設に使われ、その背景には彼の母が言った一言があります。「みんなが使えるものが一番いいわ。」

運命は彼が株式市場から退場した翌年の1915年に、再び彼を試練に晒しました。第一次世界大戦が勃発し株価は急騰、しかし岩本氏は大きな損失を被りました。寄付金を大阪市に返してもらうよう人々から勧められましたが、彼は固くその考えを拒否しました。「一度寄付した金を返してもらうなど、大阪商人の恥だ」と。1916年、彼は自ら命を絶ちました。死と生の間で揺れ動く5日間、北浜のブローカーたちは天満宮で彼の生還を祈り続けましたが、結局彼の死を防ぐことはできませんでした。


岩本栄之助氏が夢見ていた公会堂は、彼の死後の1918年に完成しました。現在、国の重要文化財に指定されたこの建築物は、市民の文化と芸術の活動の重要な場となっています。岩本氏がその完成を見届けることは叶いませんでしたが、彼の精神、コミュニティへの愛、公共への奉仕の心は、この公会堂を通じて永遠に称えられ、受け継がれることでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?