見出し画像

軽蔑に値する人たち

内実を、実相を、何一つ知らないはずなのに、一回ともその対象について触れたり調べたりしたこともないのに、表層的に自分の皮膚感覚と自身の趣味的感覚で、その対象を酷評し断罪する。社会や人物ばかりか、音楽なり、映画なり、価値観についても。
右翼だけでない。左翼やリベラルを自認する人間にもこうした人は多い。そう人に限って自分は理知的だと信じ込んで疑わない。しかしそういう人こそ”反知性”そのものだと言わざるを得ない。

自分の皮膚感覚への絶対の信頼、そして自分の陣地から頑なに外へと出ることなく、外部へと視線を向けることさえもせずに、自分の嗜好性に凝り固まり、その自身の正しさを証明したいばかりに、自分の陣地外にあるものを、その実相もしらずに徹底的に攻撃する、そうした人たちを、私はとても苦手にしている。

自分の信念や価値観を信じていれども、自身には常に誤謬性があるし自分の視界には限界があることを自覚し、常に間口をあけておく。間違いや新しい情報に気づかされたら、いつでも自身の意見を回収する用意があること、常に自身の考えを刷新、改修するという姿勢を貫くこと。そうした行為を繰り返すことで視野は広がり新たな知を手に入れることができるわけであるが、
彼らは頑なに自らの意見を曲げることがない。曲げないことこそが真実を証明するものだと信じて疑わない。脱コードすることを知らない。そもそも、彼らは、「真実がある」と信じきっているのだ。科学は、不確実性を証明しているというのに。笑止。
軽蔑に値する人たちだ。
-----------------------------------------------------------
上記は、昨年わたしが書いたものだが、抽象的な表現に終始しているので掴みづらい部分もあるかもしれないので、少しばかり補足したい。それは政治的な信念や思想だけでなく、例えば文学や音楽など趣味にも該当する。ある文学的なジャンルが好きな人は、それが余りにも好きすぎるせいか、ほかの文学ジャンルやある作家について認めないばかりか、唾棄するほどに嫌い公然と批判する。そういう人は、読んでつまらないと思うことが、実は自分の理解力が不足に端を発しているとは、つゆほどにも思わないのだ。まだ読んでいるだけならマシかもしれない、なかには、全く読んでもいないのに、これはダメなやつとレッテル貼りするお寒い人たちもいるのだ。
こうした人たちに共通しがちなのが(例外もある)、自分が好きだと思う対象に対して全幅の信頼を寄せていることだ。たとえば好きな作家や歌手やアスリートは、全人格をもってしても申し分ないほどに立派だと思う。他人はどこまでも自分とは別人格であり、必ずしも分かり合えるわけでもないし、欠点のない人間なんて存在しないということへの理解がない。余りにも浅すぎる。人間音痴なのである。

たとえばわたしは時代遅れの大島渚映画のファン(創造社)だが、もし大島渚と対面する機会がもてたとしても、それが幻滅に変わることだって容易に想像ができる。意見が合わずに口論へと発展してしまうことだってあるだろう。大島渚がつくった映画と、大島渚というパーソナルな存在とは、全く別物なのだ。

これが映画や文学とか音楽ならまだ良いかもしれない。それが現実の人間関係であれば、大きな悲劇につながってしまうだろう。

さらに付言しておきたい。こうして対象を絶対視する人は、自分自身への信頼度も高い。自分にも邪悪な心が巣食っているとは全く思わないタイプなのだ。結構賢い人だと思われるような人たちにも、こうしたタイプの人は意外に多い。狭隘な視点から一歩も外に出ないのだ。反知性的で、とても勿体ないなと思う。

※なんかとりとめもない投稿を続けているが、少しずつテーマを決めていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?