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スイカにはならない【掌編小説】(暴力表現あり)

 誕生日ほどいらだつものはない。
 わりと小さい頃から俺は誕生日が嫌いで、その日は家に帰りたくなくて、わざと隣の席の女子のランドセルに牛乳入れたり、授業抜けて万引きしに行ったりした。そのころは担任がいちいちクラス全員の誕生日を発表して「おめでとう!」なんてやりやがったから、余計腹が立った。
 俺が子供の頃、うれしかったのは、亜也の誕生日だ。同じ団地の同じ棟で当たり前のように出入りしてて、亜也の家じゃ当たり前に俺の分もケーキを用意していた。そんなもの亜也の誕生日か亜也の家のクリスマスでしか食えないから、それだけで特別だった。
 俺は晩飯も毎日、亜也の家で食う。亜也の母親は下手なりに料理するから、いい。俺の母親は毎晩仕事に出るからしない。
 誕生日なんか忘れたい。忘れてくれりゃいいのに。
 毎年、この日だけはさっさと家を出る。遅刻せずまっすぐ学校に行く。うちのクソオンナと顔を合わせたら、言われてしまう。
 ──わかってんだろうね、今日はあんた、誕生日だよ。きっちり帰ってきな。
 母親が仕事を終えて帰ってくる前に、家を出たい。
 それでも昔は母ちゃんと呼んでた。
 純君のお母さんは若くてきれいね、なんて言われてちょっと照れたことだってあった。どういうことかわからなかった。若く見えるのと、若すぎるのとじゃ、意味が違う。
 中学二年の俺の、母親が、三十ちょいってのが、どういう意味かということだ。

「おはよう」
 亜也はかならず俺のクラスに来る。俺が来ているかどうか確認して、その日の晩飯のメニューを予告する。昨日も来て、今日はかますだって、かますって魚の名前なんだよ、純、知ってた? なんて馬鹿みたいににこにこして言ってた。
「今日は、純、うちに来ない日?」
 亜也は、俺の誕生日にオメデトウなんて言わない。知っているからだ。ただ、毎年、俺が晩飯を食いに行かないことだけ確認しに来る。
「いかねえよ」
「ん。一緒に帰ろうね」
 それも決まり文句だった。一年に一度の。そうでもしなければ俺が家に帰らないと知ってるから、ドナドナみたいに俺を牽いて帰ることに決めている。
 俺が道をそれてそのままどっかの屋上にあがると思っている。
 十二のときの今日、小学校の屋上の俺を見て亜也が泣いたから、俺はおとなしく帰るようになった。

 右も左もわからないチビだったころは、わくわくしていた。
 ──ママ、ぼく、四さいになったから、きょうはパパがくるね!
 誕生日だけは、ママが夜いっしょにいてくれる。パパが来て、おおきくなったなあ、なんて言って抱っこしてくれて、赤い提灯のお店で焼き鳥を食べさせてくれたりする。
 心待ちにしていたころもあったのだ。
 そのクソジジイがどんなに卑怯な変態か、今はわかる。あぶらぎった額を見ると吐きそうになる。
「私ねえ、スイカが一番怖かったの」
 斜め後ろを歩きながら亜也はずっと一人でしゃべる。俺が返事をしなくてもずっとしゃべる。
「種あるでしょ。馬鹿だと思うだろうけど、食べたらスイカが生えてくると思ってたのね、体の中に。で、食べちゃったことがあってね。神社に行くたびにこう、手ぇ合わせて、スイカが生えてきませんように! って真剣にお祈りしたの」
 ぱんぱん、と手を打つ音がした。誰も見てないのに、亜也はジェスチャーを怠らない。
「すっごい長いこと祈ってたらしくて、お父さんがね、何お願いしてきたのって聞くの。でも、言えないでしょ、怖くて。種のんじゃったなんて。ダメって言われてたのに、のんじゃったから。で、どうしていいかわかんなくて泣いちゃったのね。そしたら……、大丈夫、神様は、謝った子は許してくれるからね、って言うの。安心したよ、じゃあ神様が何とかしてくれるなって思って。種ってさ、トマトは気になったことないのっておかしいよね。あれはいつも種ごと食べるのにね。あ、ゴマって種だよね」
 亜也の話にまともなオチがあったことはない。だらだら続いて、話題も転々として、いつの間にか元に戻ったりする。俺は黙って、亜也の下腹部からスイカの木が生えるところを想像していた。スイカは大きいから、木もでかい。亜也は養分を取られてしわしわのミイラになる。想像の中で、俺は亜也の木に生ったスイカをもいで思い切りたたき割った。皮が黒っぽい緑で、中は赤だ。
 のろのろ歩いて帰ると、団地の階段の下に、腹の突き出たあのジジイが立っていた。
 俺のほうをじろじろ見ていた。
 冗談じゃない、俺はそれ以上進めなくなった。あぶらぎったジジイが「純」と言った。
 寄ってくるな、ジジイ。くるな。
「やあひさしぶりだ、誕生日おめでとう。もう十五か、でかくなったじゃないか」
 冗談じゃない、こっちを見るな、ジジイ。
 ジジイが俺を見たのはその短い間だけだった。肩越しに亜也を見て、眼を細くした。
「彼女か」
 俺は何も言わなかった。ジジイに言う価値のあることなんてないからだ。
 亜也はちょっと硬い声で、丁寧に否定した。
「友達です。後藤亜也です。近所なんで」
「へえ、そう」
 ジジイはにやついた。
「いいなあ、純。可愛い友達がいて、なあ?」
 ジジイの細めた目が、亜也の制服のスカートのあたりを探っていた。

 何が破裂したのか、俺はもう我慢の必要を感じなくなっていた。ジジイが尻もちをついていて、俺のこぶしの当たった、頭の横、左耳のあたりを手で押さえていた。さっきのスイカを思い出した。俺は両手を組んでジジイにもう一撃重いのを見舞った。まだ割れなかった。耳を押さえた手のところから血が垂れていた。かばおうとして掲げてる腕が邪魔だった。
「やめて、やめて、やめて!」
 亜也が俺の制服の上着をぎゅうぎゅう引っ張っていた。
「しね、ド変態野郎」
 たぶんまともに口が回らなかったけど俺はそう言った。
 ジジイが逃げた後も、俺はずっと怒鳴っていた。
「ド変態野郎!」

 うちの玄関は開けっ放しになっていた。
 そのまま靴を脱がずに走りこんで、どうするつもりだったのかよくわからないが、クソオンナを見つけたらまた怒鳴るか、もしかしたら殴ろうと思っていたかも知れなかった。泣きながら亜也がついてきて、玄関で純、と呼んだ。
 あのジジイのために掃除するからいつもより少しだけ片付いた、居間の床で、俺の母親は身体をくの字に折って腹を押さえ倒れていた。顔がぼこぼこになって鼻血が出ていた。
「ド変態野郎」
 口がそれしか言えなくなったみたいにぽろっと出た。あいつを殺せばよかった。
 俺は肩を持って母親をゆすった。
「……母ちゃん」
 母ちゃんはがくんがくんと首を揺らすばっかりで答えない。
 いつの間にか、亜也が入ってきて、鞄を全開にしてスマホを出そうとしていた。
「救急車呼ぶからね。動かしたらダメだよ」
 俺は返事をしなかった。また、母ちゃんと呼んだ。
 母ちゃんの喉か鼻のあたりがズズズと音をたてた。ああ、死んでねえんだ。
「あのクソ変態野郎、殺せばよかった」
 背中で亜也が早口で、
「純はしないよ」
 と言った。

 俺が神社に行ったときは、亜也がお嫁さんになってくれますように、だった。
 いまなら、亜也をスイカの苗床にしなくて済むように願うだろう。
 どうか俺がスイカの種になりませんようにと。

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