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驚の無気力フィーバー、悪夢も見るよ

なにもしたくない。何もしたくないというよりもなにをしたら良いのかが、全くわからない。完全に人生のどん詰まり感を味わっている。

「良い」っていうのはこの場合、ある方向に向かっていっている事を多分言っている。つまり、何かしらの目的に、その方向に向かうために何かをやっているということがきっと「良い」こと。人生において、それが明確でそれを実践できていることできっと満足感や幸福感が得られるはず。

問題はその方向がわからんってことだと思われる。なにをやろうと、「良い」っぽいで終わる。便宜上何かに向かっているがそれが向かっている先が漠然とし過ぎている行為、ぽい事。ぽい事は能動的に動かなくてはならない割に満足感があまり得られないため、負債になっている感がすごい。現に身体的精神的っていうより人生的疲労感とてもすごい。そして、ぽい事でも完遂させればきっと何か、次の手がかりになるかもしれないが外に出ず人に会わずで人生体力も衰えているので、やりっぱで終わる。良くない。対策を打たねば。

現状を整理なくては。方向であり得る先はどこぞ。「金」なのか。「実績」や「地位」なのか。とりあえずこの俗物即物的概念が浮かんだ。一つずつ考えてみる。

「金」。これはなくては困る。金がなくては金を得るために人を傷つけ始まる。人間社会では、金がなくては身体を保てない。身体を保てないと、身体を保つために必要なものを他から奪うということをしてしまう。別に他者から奪わなくても、論理的には身体保全は可能なのかもしれないけれども、それをするにはかなりの才能が必要な気がする。おそらく、お金のために残虐非道なことができるくらいの才能と、質は違えど絶対値は同等のものがきっと必要。それは少なくとも私にはない。
なくては困ると同時に、あり過ぎると変なことにもなるものでもありそう。世の中きっとお金で解決出来ることは多々あり、自分のため、他者のためにお金で解決してしまったほうが良いことがきっと間々ある。しかし、お金と解決しなくてはいけない事象の間に不均衡が生じた際に、お金パワー力技でその不均衡ごと丸め込んだ結果を解決とすると、お金パワー力技で解決した人間の価値観が狂うような気がする。極端な話、これを極限まで繰り返すとお金で全て世の中の事柄が換算できると考える人間が出来上がる気がする。例えば、港区とかカルフォルニアの沿岸部とか、そのエリアと外部が物価によって金銭感覚の溝できてしまった地に生息する人たちの中に、きっとそういう妖怪になりつつある人間がいるのではないだろうか。想像だけれども。
だからといって、価値の数値化が良くないわけではない気がする。お金に困っていなくても、何か行動に対して相応なお金で価値を示されたらそれはきっと歓びなはず。むしろそれぐらい客観的なわかりやすい価値の指標である程度自分の行動、ひいては自身の価値を確認していかねば人生の負債、そして人生の迷いの森化が始まってしまう。
それではどうすべきか、お金の価値とどのように向き合うべきか。おそらくお金を頂く、それによってのみ自分の尺度を掴むのは難しい。きっと自分が価値のあると思う事柄にお金を支払うということによっても、その価値のあるものに価値を見出す自分としての自分の価値をみいだせるのではないか。その、自分が本当に価値のあると思えるものにお金を払えるだけの財力を目指すべきなのかもしれない。その数字がきっとわたしの、数字に表せる分の実存的な価値。全てではないと思うが、重要な部分な気がする。

なるほど、お金に関してはちょっと整理できたように思う。

さて、「実績」と「地位」。実績とは。例えば今までしてきたお金をいただいてやってきた、翻訳やら教員やらは仕事は私の人生における実績なのか。多分一般的にはそうなのかもしれないが、人生の、となると微妙に違う感じがする。
実績を積むことによって、何が得られるか。「次」な気がする。次。これこそ方向性。つまり、まず実績によって他者に「この人はこういうことができるんだなぁ」と、期待をもってもらうことができる。期待は能動的行動のための糧。そして、期待によって成し得た事柄がさらなる実績に。そして「次」がやってくる。期待を受け取り、能動的に動くサイクルが完成する。これなのでは。実績、欲しい。そしてある存在に対する他者からの期待の大きさ、これがその存在の「地位」ということなのかもしれない。日本で一番の地位にある人って、まぁ天皇か総理大臣なのだろうけども、天皇に対する期待って「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」で総理大臣は良くわからんが「内閣の統率と代表及び行政の指揮監督」。期待値がデカすぎる。それは本当にそれをつつがなくできていれば本当の意味で偉い。本物の偉い人の偉さ。
しかし、これはお金とも通ずるが、実績はある程度数字に還元できてしまうから、数字の罠に嵌まりやすい。フォロワー数はある意味、実績なはず。フォロワー数はある人物、もしくはデジタルな存在が発するコンテンツに対する引力が数字で表されている。これが多いとそのアカウントは何か人々が興味を引くことをしたという実績が認められ、そして期待される。そして期待されればされるほどフォローの数字が大きくなり「地位」が付与される。ただ、数字が大きいということで期待値があると理解される、つまり期待される内容ではなくて数字が先行する状況というのが、今(もしくはちょっと前の)のトレンドなのかしらと思わんでもない。だからフォロワーを買うってことがおこってしまう。
そしてもう一つ、実績と関わりあるのは肩書きだろうか。これは地位と似ているのかもしれないが、数よりなにか他者によって認められたライセンスといった感じのものと理解できる。基本的に人間は何を名乗っても良いけど、その名乗りに、そしてその名乗りによって行動が行われる場合は特に、裏付けは必要な気がする。あるアイドルが、アイドルとして成功したのにアーティスト宣言をしてしまったがために、人気が落ちてしまったという話を聞いたことがある。それはきっとアイドルとしての実績を積んでファンからアイドルとしての肩書きを認められたけれども、肩書きの裏付け主体であるファンがアーティストとしての実績や期待をアイドルから見出せなかった、さらにアイドル側からのファンの裏付け主体性の剥奪が起こったからなのではないか。これはでもイドル側からしたら、「私はアイドルとしての実績を(完全にではなくとも)一回リセットしてアーティストとして見られるよう、アーティストとしての実績をこれらから積みます」ということで全然ありなのか。アイドルとしてしか自分に期待できない(「アイドルとしてアイドルにファンが期待する」という行為の内容や定義は多分ざっくりしたコモンセンスのほかに事細かいアイドルとファンの個々の関係性によるのではないかと思うが)ファンには申し訳ないがここまでと割り切って、アーティストとしての自分の未来性を見てくれるアイドル時代からのファンと、アーティストとして初めから認識してくれるファンに裏付けされる肩書き背負うと宣言する。なるほど。自分がどう見られたいかを理解して、それを名乗って、その肩書きが既存のものならばその肩書きの概念に沿った実績を積み、その実績によって他者からの期待による裏付けが取れた時、その肩書きを持つ個人と社会の関係性という次元での自己同一性が確立するのかも。社会においての自己同一性、とっても大事。しかし、社会においての自己同一が自分の主観からの自己同一と乖離するのも辛い。そこは折り合い。

なんとなく自分が漠然とさせてきた「なんか自分も含めみんな欲しそうにしているけど、欲しそうにしている人を嘲笑してオッケーそうなモノ」の輪郭をある程度明確にできたように思う。手放しに欲しいなんてとても言えないし、いらないなんてもってのほかな概念だった。私の定義の仕方が間違っているにしても、自分なりの受け止め方をできてよかった。

さて、この分析を今の自分の状況と照らし合わせてみれば、きっと問題が浮き彫りになるはず。そしてその問題を解決すれば、この泥沼停滞化した人生に何かしら清流のようなものが流れる気がする。そうなればこっちのもの。

「金」については収入がほぼゼロに近いということが問題。あるにはあるけどスズメの涙ほどっていう言葉がこれほどお似合いな金額もないってくらいない。生活にかかるお金の大部分が貯蓄と配偶者の人の財産で賄われている。衣食住において困ったことはないし、それどころかスーパーで食べたいものを買えるっくらいの財力は幸いにして保たれているが、全くもって自己の社会的存在価値が見いだせなくなっている。人生の迷いの森化。「すべての人間は価値がある、生きてて偉い」というインターネットで発見した呪じみた呪文を自分に言い聞かせるものの、他者から自分へ評価があまりにも曖昧で、そして他者に生かされている感が強いので、それを実感として得られない。価値はないのでは?生きているだけで迷惑なのでは?これほどまでに無責任な言葉も珍しい。他者の財力で食べている身なので、払うという行為にも一抹の申し訳なさを感じてしまう。

「実績」を積むという行為にしても、人生で一番マシだなと思ってやってきた学術という世界は実績を積むということが、少なくとも私にとっては、なかなかにハードな世界。論文を発表したくとも、リジェクトが続くともう次に出すのが怖くなってくる。すべての批評が「論理破綻」「勉強不足」「語学力不足」といっているように聞こえる。形式論理ばりに論理に隙を与えないようにすべきなのか、文章を紡ぐにあたって解釈の余地をなるべく少なくしなくてはいけないのか。知識はどこまで広げなくてはいけないのか、世界中の有名哲学者の言っている事と広範囲における科学的な研究の最先端どちらもしってなくちゃいけないのか。そもそもおれの英語って理解されているのか、おれが考えていることはしっかり言葉にのっているのか。たまに、論文のPDFやらデータベースを開いたブラウザやらWordドキュメントやらによっていっぱいになったパソコンのディスプレイに向かっていると、ひょっと海とか宇宙みたいな何にも頼りになるものがないし足掻いても何にもならないような空間に放り出されたような気持ちになる。周りの時空間は確実に流れていうけど、その変化に乗れないから変化に伴って自分も存在している実感がうまく掴めない。

しかし、こんなことを言っていてもはじまらない。この問題を解決せねば。

この「金」「実績」「地位」の上記の分析において、いまの私にとって一番重要視しなくてはいけないものは「実績」。「地位」は欲しいと思って得られるようなものではないし、「地位」と実力の乖離が激しいと醜態を晒すことになり得るからとても怖い。「金」は「実績」をある方向に積み上げていけば、きっと解決する。期待をするなら生かしてくれ。就職すると言う方法もあるのかもしれないが、それにしたって新卒のようにまっさらさが評価されるような市場に参入はできない。ましてやこの地の公用語が話せないという時点でかなり難しい。へたに動くと迷いの森化が深まってしまう。

それではどのようにして「実績」を積むか。学術的論文を書き上げ雑誌に投稿する、ポスドクに応募する。これらは今、ちょっと体力がない。今はダメ出しやお祈りを受け入れる心の余裕がない。ただ過去10年で、ある程度やってきたかなって言うのは間違いなく学問を通して頭の中を文字で表現することというのは間違いない。

この文章を書いている間に、他の文章を書き上げてnoteにあげた。Research GateやらAcademia.eduのお知らせと違って、読まれてますよのお知らせが怖くない。これらのお知らせは、「頭の悪さが露呈してしまってるかもしれない…」と思わせる。noteのお知らせはむしろかなり嬉しい。そして、いいねを押されるうれしさは読まれているっていうことのほかに、伝わっているっていう実感をともなう。noteで「実績」を積んでフォロワーの数を増やすことで「地位」を築き、「金」を得るってことはあまり現実的ではないように思う。だけど自家発火には良い。「一応80回前後は少なくともクリックはされてますよ、8人ぐらいは呼んでいるんじゃないですかねぇ。」少なくとも、書き上げたことの「実績」が自分の頭の中を言葉に乗せて他者に送り届けられる能力があるのではという自分への期待になる。自分への期待、これは「自信」ではなかろうか。一度与えられた哲学博士という肩書きを横に置いておいて、言葉を紡ぐことがそこまで苦ではない人という設定で、そこで実績を積む。そして、その自信をつければ自信による防御力で、論文を投稿した際の批評も冷静に受け取ることができるようになる、はず。

正直、「うわぁ!!誰かおれを認めて日々生活するだけの金を憐れみゼロでくれ!!」と思う時もある。だけど、そんな話はない。ただ具体的な方向性は見つかった。とりあえず、これでいい、これでいい。

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