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手の届く範囲でさようなら

自分が感知できる範囲って,自分の視界で確認できる部分に限られているとか聞いたことがある.例えば,今僕がこの文章を書いていて,背中の世界というのは存在していないという感じ.振り向いた瞬間に世界が作られる的な.シュレディンガーの猫みたい.

以前から見知ってくれていた人がいて,別のものに興味が移り変わっていく.仕方のないことだけれど,悲しいね.バンドは動いているように見せることが重要で,止まったままだと興味が削がれていくらしい.絶対的なものになりたいけれど,そこまでには至っていない.声に出してくれないのであれば,それは伝わらないのだ.なんでも一緒.さようならだ.

逆に,声に出したり文字に出したりしてくれる人は,勝手に覚えていて,残念ながら僕も人だから贔屓にしちゃうね.それも仕方ないことだ.許せサスケ.それは差別ではなく当然のことです.なんなら,「最近あんまり見ないけど,大丈夫かな」と心配になったりしております.

音楽は,スキマ時間に楽しめるものだ.これは間違いない.けれど作ってる側は「スキマ時間に楽しめるように」とは作っていない.人生の多くの時間を費やして「作品」を作っている(僕はそういう意識を持っている).商業的なものもあるかもだけど.僕は作品という意識を最初から持っている.だから,スキマ時間で楽しんでいるのは聞き手側なのだ.それが悪いことだとは思わない.僕も通勤途中とか電車の時間とかにBGMとして流すことも多々ある.だから,音楽は「スキマ時間でも楽しめる」というのが正解なんだろうな.作る側が人生の多くを費やしているのと一緒で,聞く側も生活の時間を音楽に当ててくれている.ありがたいことだ.その中からシノエフヒの音源を選択してくれるのは本当に嬉しい.逆にずっと選択してくれないのは,悲しいけどさようならしたい.僕はコンテンツであって,友達じゃないんだ.

今書いていて思ったのは,最初は「だから音楽を聞く時は真剣に向き合ってほしい」という終わり方をしようと思っていたけれど,それは違うな.真剣に向き合うような曲を作れていない自分のせいだ.どれだけ思いがあっても,それが伝わるためにはそれ以外のところをおろそかにしてはいけない.絵の話だけれど,「技術が上がるということは透明度があがるということ」という話があって,それと全く同じだね.一番伝えたいこと,考えてほしいことにたどり着くためには,それ以外の部分を透明にする必要がある.だから妥協は許されないんだ.けど,人生は短くて,睡眠も仕事も生活もしないといけないから,きっつい.あとは動いてる感という糞みたいな(けど大切な)要素を出すためにも動かないといけない.あれ?僕が一番したいことって?

生き物が美しいのは生まれた瞬間と死ぬときだけかもしれません.僕は今は人間が生きていること,それ自体には美しさは感じられない.確かに生きることはとても大変だけれど,だからといって自分を殺してレールに乗って生きていくことが美しいのか.ずっと疑問だ.お昼の時間になったときに,皆が一斉にご飯を食べだすその空間に,美しさはないと思う.頭で考えて,悩んで苦しんで,泣いて笑って嘘ついて,そうやって生命を燃やしている時,どの生き物も美しいのではないかって思う.以前と少し考え方が変わったんだけど,きっと僕の文章や作るものが好きな人達は,ずっと悩みながら生きている人たちだから大丈夫.美しいよ.

幸せになると美しくなくなってしまうんじゃないかっていう不安がずっとある.心の空間を埋めようと何かを作っている気がする.これが埋まってしまったとき僕は何になるのだろうか.

名前を捨てて,何でもなくなった状態で旅に出たい.深く呼吸をして地球の振動を確かめたい.急に自転が止まったとき,宇宙に飛ばされてしまうのもいいな.できれば破裂しないままの状態で土星の輪っかの一部になれたら,とてもロマンチックな気がしちゃった.

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