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サマーウォーズを観返して、竜とそばかすの姫の解像度が上がった

君たちはどう生きるか、のレビューを書こう書こうと思いながら、先に夏の終わりを迎えそうになっていたので、再上映されていたサマーウォーズを観て来た。
金曜ロードショーで散々観ていた映画だが、実は映画館で観たのは初めてだった。

面白かった。とても面白い、2009年に上映された映画なんだけれど、全然今上映されても違和感がない。
Ozという誰もが一回は妄想したことであるだろうバーチャル空間の設定も、「まあそういうのあるよな」とある程度の粒度で納得させられるレベルで納めており、映画自体は「一夏の良き思い出」というハッピーエンドを迎えていて、おばあちゃんは亡くなってしまったけれど、家族はみんな笑っていて大団円という。とても上手くまとめられた良い映画だった。

脚本と監督

なぜ細田守は、竜とそばかすの姫で、改めて仮想空間という設定を使って映画を作ったのかを考えたい。サマーウォーズを見返すことで、僕はこれは劣等感から来るものだと思った。サマーウォーズの世界のOzという空間はそれくらい現実と仮想空間の塩梅が良い。

細田守映画は、サマーウォーズ以前と以後で語られることが多い。それは、脚本家として細田守が入るか否かの線引きなんだけれど、これが露骨に現れている。
サマーウォーズまでは原作・監督に細田守、おおかみ子供の雨と雪で脚本に細田守が入り、バケモノの子から脚本も細田守のみという形になっている。
※ちなみに脚本家は奥寺佐渡子さんという方が担当されていた

映画の撮り方等に関しては完全に素人なので浅い理解で申し訳ないが、一応原作,脚本,監督について整理しておきたい

  • 原作者:物語の基礎を作る人。映画の文脈だと小説や漫画など別媒体での作品の作者。この時点では映画との関わりはない。

  • 脚本家:原作に基づき映画用に脚本(シナリオ)を書く人。シナリオライター。

  • 監督:脚本に基づき映画用に映像の撮り方やカットなど、脚本を元に映像や絵コンテに肉付けし映画化していく人

ざっくりの理解ですが、これで読み解くには十分かと思います。

まず、サマーウォーズを語る前に、時をかける少女を書かないといけない。時をかける少女も前述の通り、脚本:奥寺、監督:細田の体制での作品だ。(ちなみに原作は異なる。)この作品を嫌う人はあまりいないんじゃないかと思う。一夏という短い期間に時間遡行のくるみを割った真琴がタイムループして自分の人生や人間関係と向き合う物語で、高校生の青春の駆け引きや人生への悩み、どこか耳をすませばのような感覚を抱きすらある。ちなみに僕は耳をすませばも大好きだ。

そして、サマーウォーズだ。この2作によって細田守は監督として名前を挙げ、また同時に「夏の映画の代名詞」としても名前を挙げた。
しかしあくまでこの2作品は脚本ではなく監督の立場での参戦であり、映画内のストーリーを作る立場では無かった。なので細田守は「自分の書く脚本、自分の力できちんと作品を認められたい」と思ったのではないか。
脚本家からよく書けば卒業、悪く書けばクビにしていった流れが、細田守の脚本への参入の形で露骨に現れている。

僕は細田守の映画は好意的だ。おおかみこどもの雨と雪も僕は好きだ。もちろん田舎ではこんなことあり得ないとかそういう指摘があるのは重々承知しているが、雨と雪がおおかみになるか人間になるかの選択の駆け引きや音楽などそれ鑑みても良い映画だと言えると僕は思ってる。確かどこかに感想を書いたような覚えがあるので、思い出したらリンク貼っときます。

同様にバケモノの子も未来のミライもどちらも好きだけれど、確かに世間からの批評は厳しいものだったと思う。いくつ映画を作っても「サマーウォーズの細田守」というのが付き纏ってしまうのだ。これがコンプレックスだったのだと僕は考えている。

OzとU

未来のミライから3年後、竜とそばかすの姫を作ったわけだが、なぜ改めて細田守はUというバーチャルの世界を映画にしなければならなかったのか。わざわざサマーウォーズという傑作を、しかも絶妙なバランスのOzという空間を作って、なお新しい空間を定義しなければならなかったのか。それは細田守がサマーウォーズを超す作品を自分1人で作るためだったのではないかと推察する。しかし、結果としてその空間の定義はガバガバで、あまりにご都合主義にまとまってしまったと感じざるを得ない。

サマーウォーズでは、あえて安易に書くが「家族の絆」がテーマの一つだろう。複数のカットで左手の薬指(=結婚指輪)を映すシーンがあり、繋がりを意識させるシーンが何度もあった。大きな脅威に対して、家族が団結して乗り越える、よく言えばありがちな物語だが、それを現代のフォーマットに合わせて書き換えており、加えて主人公の冴えない感じも相まって共感を呼んでいたんだと思う。

一方竜とそばかすの姫は、自分のことを嫌いな鈴が、家族という繋がりをある種呪いとして描いており、大きな脅威に対して1人で立ち向かうという構図になっている。

最終的に世界中のキャラクターの力がベル(=鈴)に集まって脅威を退けるという形は同じだが、そこに家族の影はない。

Uの世界の設計の部分で、もう細田守の限界は見えてしまった。恐らく誰も口を出せなかったんじゃないだろうか。鈴がPTSDで歌えないという設定で、なぜUの世界で歌っているのをいくら布団の中とはいえ無理がある。とか細かく書いたらキリがない。

そもそも単純に、Ozの世界をそのまま延長して描けば良かったまである。自分の作品なのだから流用してなんら問題はないし、なんならサマーウォーズファンも喜ぶだろう。わざわざ穴だらけの設定で作ってしまうのなら、Ozの延長として時の流れで近代化した、とかにすれば良かった。しかしそれをしなかったのはなぜか。それは、

サマーウォーズの力を借りたく無かった
=自分の力だけでサマーウォーズを超えたかったから
だろう。

エゴなのである。

それでもなお期待したい

竜とそばかすの姫は正直に駄作だったと言わざるを得ない。どうしても認められない。良い映画とは言えない、それは作品以前に私情が見えてしまったからだと気づいた。
しかし、宮崎駿が「君たちはどう生きるか」を描き終え、アニメ時代を引っ張っていくのは細田守や新海誠といった人たちであるのは間違いない。
そして、僕は映画が好きだ。だからこそこれからも最大限に期待して、楽しみに待っている。
できれば、脚本は他の人に任せて。

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