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だれが「息ができない」のだろうか?

さて日本の皆さん。
あなたは “ 人種 ” 差別を受けたことはありますか?
先月アメリカのジョージ・フロイドの死が世界中を震撼させたのは皆さん知っているかと思います。

「息ができない」と必死に叫びながら悲しい死を遂げてしまった彼の事件を引き金に全米だけでなく世界中で「Black Lives Matter」の掛け声のもと再び人種差別撤廃の運動が激化した。
なぜ “ 再び ” と強調したのかですが、ある意味マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの公民権運動(かの「I have a dream」で有名なキング牧師)から50年以上もアメリカでは人種差別撤廃の運動が続いていると言っても過言ではないからです。

今回は人種差別について色々と書いていこうかと思います。
すごく個人的な意見や限りあり完ぺきではない自分の知識をもとに書くので間違いなどもあるかもしれません。決してこちらの意見を押し付けるつもりでも何か結論を出そうとも思ってないので、ただ読んでいただいて考えてもらいたい、そういった読み物になるのでご了承ください。

6つのポイントに分けて考えていきます。

1)日本での人種差別

冒頭での質問の意図ですが、日本人が日本にいながら人種差別を受ける経験をすることはかなり稀だと言えます。
出身地域、学歴、性別、職種などで差別を受けたことがあると言う人もいますが、これらの差別は強引にでも逃れる方法はあります(出身地を偽る、学歴を上げる、性別を戸籍上や外見上変える、転職するなど)。しかし、人種という外見的特徴を変えるのは不可能に近いものです。
日本人の方でも親や祖父母が外国人でいわゆるハーフやクォーターと呼ばれる人は差別を受けたことがあると思います。
アメリカやブラジルのように人種が入り乱れているモザイク社会やヨーロッパのように移民や国同士が地続きになっている国とは違い、ほぼ単一民族で成り立っている日本では人種差別を身近に見ることはほぼありません。

※ほぼないとは言いますが実際には、アイヌ民族の方たちはこの人種差別を受けたと言えます。しかし、その話をしだすと長くなるので、それは申し訳ないですがまたの機会に・・・

2)ブラジルでの人種差別

ブラジルではよく「ブラジルには差別はない」なんて言い方をする。
この発言の裏には、世界一のモザイク社会の中では白人だろうが、黒人だろうが、男だろうが、女だろうが、ストレートだろうが、LGBTだろうが、デブだろうが、ガリだろうが、誰しもが差別し差別される社会だという意味がある。ある意味この言い方は間違っているとは言えないが、同時に差別を正当化するための言い訳としてもとれる。
これは、たちが悪い。すなわち、ブラジル国民は差別を日常的にしていて、それに気が付いていないということだ。差別をするのにも、差別をされるのも鈍感だと言える。
ブラジルだと黒人のことを「おい!黒いヤツ!」なんて言うと人種差別だ。しかしそう言われた黒人も「なんだよ、破れた目をした日本人」(白人や黒人と比べて目が細いアジア人はこう言ってバカにされます)と返します。
また、金髪女性に対して「金髪女性はバカだ」と言ったりもするが、男性優位の社会でそう言われた女性たちも「でもあんたら男はバカな金髪女性に鼻の下を長くするんでしょ」と反撃をする。
などなど、いかなる状況でも差別的発言は発生するがそれに対するカウンターも発生するのがブラジルだが先ほども言ったようにこういった状況がブラジルでの差別意識を鈍感にさせてしまうと思います。

3)ジョージ・フロイト氏以前の事件との違い

今回のジョージ・フロイド氏の事件がある意味決定的に今までのと違うのは、事件のほぼすべてがネット上で拡散したということが言える。
わかりきったことだが黒人に対する不条理な扱いは大航海時代の奴隷貿易のころから続いている。近年のグローバリゼーションやITの発達、そして何よりもSNSの社会や生活への浸透がすすみ、世界の裏側で起きたことがものの数秒で携帯の画面などで知ることができるようになった。黒人に対する差別の瞬間も最近では写真や動画で見れるようになった。

8分46秒間もの間、「呼吸ができない」「助けてくれ」と必死に訴えていたにも関わらず警察官に首を膝で強く押さえられ、最終的には殺されてしまった動画が世界中の老若男女問わず全員に見れるようなっている。そう、言い方を変えれば殺人事件の瞬間が世界中に発信されたと言える。

全部を見なくても、「呼吸ができない」「助けてくれ」と叫ぶフロイト氏を数分見ただけで自分は言葉ではうまく言い表せない気持ちになった。

ある意味、あの動画を通して彼の悲痛な叫びが世界中で共感を生んだともいえるかもしれない。

4)非暴力と暴力

動画が拡散してすぐにアメリカでは「Black Lives Matter」の掛け声の下で人種差別撤廃の運動が始まった。多くの方が勘違いをしているかもしれないが実はこれは間違えだ。アメリカでは昨年から、別の事件をきっかけに人種差別撤廃の運動はずっと行われていた。

そのほとんどが非暴力的に行われているものではあるが、中にはこういった状況を利用してうっぷんを晴らしたり、ANTIFAという極左組織に利用されてしまったことで暴力的になったりもしている。これは非常に残念なことではあるものの、一つわかってほしいことがあります。

非暴力的な撤廃運動をしていた時に、運動について何もコメントしたり賛成とも反対とも意思表明をしていない人が、暴力的な撤廃運動になった途端に暴徒たちを批判したり、ましてや「ほら見ろ、黒人はああやってすぐに暴力に走る。だからダメなんだよ」なんて言う権利はないと自分は強く思います。

もちろん暴力を容認しているわけではありません。ですが、平和的な運動だった時には耳も傾けず、状況を改善しようとしないのに、それが暴力的なものに発展しないと思うのはアホらしく思います。

何度も言葉で制してもいうことを聞かない子供に、いつか親が我慢できずに手を挙げるのは目に見える状況だ。
なので非暴力的な運動が暴力的なものに変わったのは完全に訴えている側の責任ではなく訴えられている側の責任だと思います。

5)黒人とキリスト教の私的考察

ここで少しベクトルを変えてみよう。

アメリカはキリスト教文化の国だ。しかし、黒人たちの大元は非キリスト教圏のアフリカである。

序章を立ち読みして、個人的次回購入書籍候補の1位に一気に上り詰めた「
アメリカ黒人とキリスト教 ― 葛藤の歴史とスピリチュアリティの諸相」では、アメリカの黒人たちはキリスト教が差別の中で苦しい思いをしている自分たちを救ってくれるものなのか、それとも黒人を仮初めの自由で縛り付けるための白人たちの道具なのかという思いを抱えていると言われている。

確かにキリスト教が伝えている福音は、救い主イエスキリストの贖いを通して神の計画が成就されすべての人々が真なる自由を得るというものだ。
聖書全般を通しても “ 差別 ” や “ 迫害 ” は大きな問題として取り上げられている。また、大切な教えである “ 隣人を愛しなさい ” の真反対に位置付いているのが “ 差別 ” だともいえる。すなはち、自分が誰かを何かしらの形で差別するということは、真っ向から聖書の教えに背く罪だと言えるし、それで神から罰せられても文句は言えないということだ。

6)自分にできること

少し前ですが、久しぶりに電撃文庫のライトノベルを読みました。
安里アサト著「86 -エイティシックス-」なのですが、SFミリタリー物ではあるものの、ストーリーの根幹には差別をテーマの1つにしていることに驚かされた。

豚に人権を与えぬことを、非道と謗られた国家はない。故に、言葉が違う誰かを、色の違う誰かを、祖先の違う誰かを人の形の豚と定義したならば、その者達への抑圧も迫害も虐殺も、人倫を損なう非道ではない。

本文中に出てくるこの思想は、誰しもがハッキリとダメだとわかっているものだ。しかし、だからと言ってみんなが差別をなくすために立ち上がりもしないどころか、「自分のこの言動は差別ではないだろうか」と自問自答すらしない。
その無関心さ、他人事と思うことが差別をなくすための足かせになっている。

たしかに「All Lives Matter」ではあるべきだ。
しかしいま必要なのは「Black Lives Matter」だということをわかってほしい。
黒人が素手で警察官にとびかかれば、警察官は拳銃を取り出し、躊躇もせずに引き金を引くことが多い。その反面、白人が武器を持って警察官にとびかかると、ほとんど場合、警察官は対話でなだめようとする。これが黒人差別のある国に現状だということ知ってもらいたい。


最後に、日本の皆さん。

いつコロナが終わるか心配なのはわかりますが、どこぞの芸人が不倫をしたことなんてどうでもいいんですよ。「ジョージ・フロイドの死」に関するニュースは一日もたたないうちに日本のニューストピックから消えてしまいました。

黒人差別だけではなく、今一度、世の中で起こっている大切なことに目を向けてください。それをどうこうしろとは言いませんが、最低でも、知っていて考えていてもらいたいものです。

今回も閉まらない感じで終わろうと思います。
ご意見ご感想もお待ちしていますので。
ではでは (・ω・)ノシ


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