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先週はともだちと二人で奥多摩にでかけてみた。涼しくて、人もすくなくて、森と湖のにおいをたっぷりと嗅いだ。朝のうちにでかけて、散策路のベンチでお弁当のパンや果物をかじったあと、13時ごろにはさっさと引き返してきたのだ。疲れきる前にあっさりと帰路につけることは、わたしたちのもつ身軽さのひとつだし、ドライでありたい部分は貫いておきたいといつも思う。

かたくなに創作意欲は回復しないまま1ヶ月2ヶ月がすぎ、各所に迷惑をかけたまま8月もなかばをすぎてしまった。

仕事と趣味の境目があいまいになってしまったので、まあ、つまりはそういうことなのだと思う。いままで仕事で叶えられなかった欲求を創作にぶつけていたのだ。しあわせなことだった。いってしまえば、いまは冷静になろうとしている時期なのだと思う。ごめんなさい。と思いつつ、日々貴重になりつつある睡眠時間を確保する。寝ないと病気になる。

このところ、机を整理して、過去に作ったじぶんの創作物をながめてこりゃひどいな、と当たり前に思う。書いた内容の巧拙でなく、モノとしてのつくりの甘さがよくわかる。まあ内容もそれはそれで、うん、というところではあるのだけど、それは若さが反映されている証拠であるからそれはそれで貴重なものだということで……。

本や出版物をとりまくあれこれについて、プロとアマチュアは「体裁」というきわめて明白な境界線をもって分断されていると、最近いっそう感じるようになった。内容の巧拙はともあれ、プロによって組まれた出版物というのは、限りなく希薄な存在として、それでも確かに純然たる意識のもとでそこに在る。読みやすいよう処理された改行やページの余白、ノンブルの位置、あたりまえのことだが、セオリー通りに組まれたものは自然で、遊び心をもたせて歪ませたものさえそこには不快でないギリギリのラインの体裁がととのえられており、そういう出版物に出会うと腹の奥からぞくぞくとわきあがるものがある。

きわめてシンプルに言えば、わたしは限られた空間を、一定の規則にのっとって満たすこと・満たされていることが好きなのだと思う。ずっと昔からそうだ。出版物には紙や印刷や組版にはじまるたくさんの透明な規則があって、それら膨大な体裁をととのえていった先にうまれる、なにくわぬ顔をして化粧をほどこされた本やチラシや雑誌や新聞たちのいとおしいことといったらないのだ。

近ごろはスーパーのチラシさえもしげしげと眺めて感心してしまう。一見雑多で、それでもセオリーにしたがって、たいせつな情報がひと目でわかるし、視線の誘導もなめらかだ。スーパーのチラシをデザインするひとに一度会ってみたい。

いっぽうで、素人のつくったものは絶対的な不自然さによってすぐわかる。いまでは素人でもかんたんにデザインができるようになったけれど、やっぱりそれはそれで、カムフラージュできていないサバンナの動物のように、それなりなのだ。そのいびつさを心底愛せるときもあれば、いくらなんでもこんなものを世に出すなよと思うときもある。アマチュアの創作とは、そういう不均衡への寛容さであり、妥協でもあるらしい。そして巧拙はある程度、体裁に比例するものなのだなと思い知る。自戒をこめる。

音楽や美術の世界もそうだろうか? 意識をしないものについてはわからないから、複雑な音が組み合わさっているだけですごいと思うし、きれいな絵をみれば上手だと、一直線にそう思う。そういうほうがしあわせなのかもしれないが、でも、それはそれで、あのわきあがるような感覚を得られないのは寂しい気もする。好きな音楽や絵はあれど、興奮するほど夢中になれたためしがないのは、そういうことなのかもしれない。総クリエイター時代なんていわれるけれど、たんにプロとアマチュアの区別がつかないだけのこともたくさんあるだろうなと思う。世界は見えない体裁であふれている。そういうものに、なるべく気付きたい。

とかなんとか、書き連ねつつも、アマチュアの創作を否定しているとか、創作について自信をなくしてしまったわけではないので、見るのもつくるのも好きだし、ほそぼそとあれこれ続けてはいきたい。ただ秋の文学フリマは、やれる保証がないので、申し込まずに時間がすぎた。

いまの生活を身体になじませながら、時間をつくらねばとあせる。このままだと、なんかやりたいねと言うだけでかんたんに歳をとりそうでこわいのだ。

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