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親の期待に応える代償として、本当の自分を失った。

こんにちは、うるまです。
HSS型HSPの私は、”親”に殺されかけました。


もちろん物理的にそのようなことはされていませんし、大事に育ててもらったという自覚もあります。

ただ、”HSS型HSP”という気質を殺されかけたのは事実です。

HSS型HSPの私は、正直家族の中でも浮いています。異質な人間です。

今回の記事は、家族との関係性に悩んでいるHSS型HSPさんにはぜひ読んでいただきたいです。共感できる部分も多いと思います。


※前回の記事では、私のHSS型HSP気質が開花した、中国の上海での生活についてお話ししています。↓↓↓



今回は中国での生活ののち、日本に帰国してからのお話になります。

実は私は4人家族で、両親と2歳年上の姉がいます。

先入観を持たず、何事にも積極的に行動する私とは対照的に、他の3人は保守的で周りからどのように見られているかを気にするタイプでした。いわゆる”自分達の面子を汚したくない”人たちです。

そのスタンスが、中国からの帰国後は一層顕著に現れるようになりました。
”海外(中国)で生活した私たち”という謎のステータスを着飾り、地元の友人を見下しているような雰囲気を感じていました。

私は子供ながらに、「この人たちは海外(中国)で何を学んだんだろう...?」と軽蔑していました。

しかし、稼ぐ力や自分で生活していく力のない私は、親の望むレールの上を歩く選択肢しかありませんでした。

学級委員にも手を挙げ、さらには中学では転校生にも関わらず生徒会長にもなりました。部活動は野球部に所属し、最後の夏の大会では背番号1を渡されエースに選ばれました。そしてなんとも理解し難い理由から、ガラの悪い子と遊ぶことは制限されました。塾にも通い、定期テストでは常に学年1位を取り、県内の公立高校へ進学しました。

私が何か成果を残すと、親は喜んでくれました。私のことを褒めてくれました。
でもそれは、親が望む「優秀で周りに自慢できる / 周りにも迷惑をかけない息子」だったからでした。

全て本来の私の気持ちに従った行動ではないので、自分が褒められているという感覚は一切ありませんでした。誰か他の人が賞賛されているのを、横で聞いているような感覚に毎回陥っていました。

もうこの頃には、本来のHSS型HSP気質を隠すことも上手くなっており、私の行動基準はいつも”親が喜ぶかどうか”になっていました。HSS型HSPは相手が望んでいることや、相手の気持ちに敏感なので、相手を喜ばせることは私も何となく得意でした。

ただし、いつも親は褒めてくれましたが、私は何も嬉しくないし、喜びの気持ちすら湧き上がってきませんでした。
それよりも、親の支配の下で行動を起こすことに違和感や窮屈さを日々感じていました。

そんな時ふと、私は ”自分で何も決められない人間” であることに気付いてしまいました。親の期待や望む生き方がないと、次の行動を起こせない人間になってしまっていたのでした。

そして、今自分は嬉しい気分なのか、悲しい気分なのか、怒っているのか、本当は泣きたいのか。
いつからか自分の感情が分からなくなりました。自分で自分のことを理解できないのは非常に辛かったです。


「悪目立ちしてはいけない」「周りに迷惑をかけるな」「普通は○○なんてしないよ」「みんなで一緒に・・・」

親から幾度となく浴びせられたこれらの言葉によって、私の中のHSS型HSPは殺されかけました。そして、親の期待に応え続けた人は、周りからの評価でしか自分の存在意義を見出せなくなってしまいます。

”普通”ではないHSS型HSPが、”普通の人”を演じられるはずがありませんでした。


私は過去の経験から、「みんなで・・・」「チームで・・・」という言葉が苦手です。
協調性とは責任を取りたくない人が、自分を正当化するために作った概念ではないかと思っています。

そんな私が、親からの束縛に危機感を本気で感じたのは、”大学受験”がきっかけでした。
ここで、ようやく「親から離れなければ私は幸せになれない」と強く思ったことを今でも鮮明に覚えています。


非常に冷たい言葉かもしれませんが、「家族であったとしても、あくまで”他人”」だということに気付くことができたエピソードについて、次回記事でお話ししています。↓↓↓

最後までご覧いただき、ありがとうございました。


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