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やさしさとは何か

ちまたにはあらゆるところでやさしさという言葉があふれている。「やさしい○○」という言葉はよく見かける。この「やさしさ」とはどういうものなのかを少し考えたいと思う。

社会における「やさしさ」

社会でよく見かける「やさしさ」は、ひとつは戦略的な意味で使用されていると思われる。たとえば、商品のキャッチコピーとしての「地球にやさしい○○」とか、「環境に配慮(やさしさ)した○○」など、これらは買い手がどうかというよりも売り手の買い手に対するメッセージの側面がある。やさしさという言葉はポジティブなイメージと親和性が高いために、このようなマーケティングの場面で使用されることが多いと思われる。しかし、ここでの「やさしさ」は、対人関係での「やさしさ」とは違うと思う。

対人関係での「やさしさ」

対人関係でのやさしさは、相手に対してのやさしい気持ちや行動、態度といったことが挙げられる。たとえば、相手が困っているとすれば、何かしらの援助行動をとる、ということがやさしさであるのかもしれない。一方で、あえて、行動を取らないことがやさしさであるということも考えられる。自分がどうかというよりも、相手にとってどうなのかが重要な気がする。「相手が困っている」というのは、本当に相手が困っているのかどうかはこちらからはわからない。相手が、「困っています。助けてください」と援助を求めて初めて、困っているんだなということがわかる。つまり、相手の立場に立つという視点取得は、相手の本当のところはわからないということでもあると思う。

心理学的な視点

心理学でのやさしさを考えると、いろいろ見えてくる。発達心理学では、人が困っているという状況において、自分が援助行動を取るときのメカニズムがわかっている。この援助行動を「向社会的行動」と呼ばれているが、この向社会的行動の前に必ず共感的苦痛が伴うとされている。この、共感的苦痛は人が困っている状況を見て自分もその状況に共感し、苦痛を感じるというもの。そのような機序によって援助行動に移るとされている。では、自分が人に対して何かしらの援助行動を取りたい、すなわち人の助けになるようなことをしたいと思えば、どうすればいいのだろう。

「自己イメージ目標」と「思いやり目標」

社会心理学では、文化的自己観という概念領域で「自己イメージ目標」と「思いやり目標」というものがある。この「自己イメージ目標」では、誰かを助けたいと思ったとき、その相手が本当に援助を必要としているのがどうかということより、「誰かを助けたいという自分の思い」が先行するということ。つまり、自分のそういう願望が他者に向かっている視点であるということ。対人関係で矢印が自分から他者に向かっているということ。「~したい」「~してあげたい」「助けになれば」「相手のことを思って」これらはすべて自己イメージ目標である。

では、もうひとつの「思いやり目標」とはどういうものか。これは先の矢印の説明でいえば、自分から伸びる矢印ではなく、相手から自分に向かう矢印ということが言える。よく使われる言葉でいえば、「見返りを求めない援助」と言えるだろう。自分がどうしたいかではなく、相手がどうしてほしいかという情報を得て援助行動を取ると言える。自分がやさしい行動を取りたいというのは、そういう自分を他者が見てどう思うのかを多少なりとも気にしているということかもしれない。思いやり目標では、相手がどう思っているのかを尊重したうえで、援助行動を取る(あえて取らない)と言える。相手のことを慮ることが根底にあるのかないのか、それによってやさしさというものの捉え方が変わってくるように思う。

やさしさと愛

さきほどまで、やさしさは対人関係における、相手を慮るという前提で成り立つというようなことを書いた。では、男女間での愛情とやさしさとではどう違うのだろう。よく言われるのが夫婦間で相手のことを思って何かをしたりしなかったりしたことが、必ずしもその通りに受け取られることは少ないとうこと。たとえば、好きな人がいるとして、その人の気を引こうといろいろ行動をとっても、その行動が相手にしてみたら迷惑千万なことも大いにあり得る。それがエスカレートすると、セクハラやストーカなどの犯罪行為に至ることがある。やはりここでも、自己イメージ目標が先行することの危うさが露呈している。しかし、自分のとった行動が相手になにかしらの好影響を及ぼしたとしたらどうだろう。その場合なら、その行為が好意的に受け取られるだろう。その行為が、「自分が~してあげたい」ではなく、「相手のことを慮った行動」であれば相手の心に伝わるのではないか。そのようなことが友情からやがて愛情へと発展するのかもしれない。

進化の過程

では、なぜ私たち人間をはじめ、多くの生き物にやさしさというものが備わっているのだろう。生物進化の過程でなぜ、このようなやさしさが残ってきたのだろう。これを考えるカギとして、霊長類の進化の視点からヒントが得られる。私たちの祖先は、単独では生きてはいけなかった。単独で生きていける環境ではなかった。そこで、身に付けたのが集団で生活するということである。その集団で生活する上で欠かせないのがコミュニケーションである。お互いにコミュニケーションをとることによって危険を回避したり、助け合ったりしていた。時にはお互いに気持ちの面で癒しあったりしていたかもしれない。しかし、私たちの祖先は言葉を発していなかった。どのようにしてコミュニケーションをはかっていたのだろう。ある、言語学の書籍では、それは猿の毛づくろいであるとかかれていた。つまり、かつての祖先は言葉を発する代わりに、毛づくろいをお互いにすることによってコミュニケーションを図っていたということである。

現代の私たちは多様な言葉を発するようになって、その表現も非常に豊かになった。それによってさまざまなコミュニケーションの形が生まれてきた。その多様性こそが、多種多様な感情をもつ私たちにとっての弊害となりうるということがわかってきた。「相手のことを思って」というのが、本当は他者を助けている自分を他者が見てどう思うか、という自己イメージ目標であることも十分にあり得る。自己イメージ目標と思いやり目標は、表裏一体である。

「本当のやさしさ」とは何か。


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