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【保存用ログ】第01回[20200406-0412]『はじめての哲学的思考』

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■0

にしむらもとい
ワークショップ第一回、始めていきたいと思います。初日月曜日の20時までに記事を投稿して開始、ということになってますが、早めの時間から記事出しときます。とりあえず手探りな感じになろうかと思いますので、参加しやすいよう多少の手順を作っておきました。アカデミックな場ではないので、恥ずかしがらずにどんどん意見を貼っていただければと思います。

■1

にしむらもとい
第9講
”僕らは世界を、僕たちの〝欲望〟や〝関心〟に応じて認識している。”
”僕たちの信念は実は欲望の別名だということだ。”

にしむらもとい
信念であれ、認識した世界の解釈であれ、そういう「意味」というのは全て、さかのぼれば自身の欲望に基づいているに過ぎないと知ることは大きいことだと思います。全ての人が各々の欲望でバイアスをかけた世界を見ているというのは、自覚するとなかなか恐ろしいことではあります。しかし、本当に腑に落ちるところまでこれを自覚するのは、なかなか難しい気もします。
A
自分の欲望に従ったバイアスをかけて世界を認識せざるを得ないとすると、私たちの生きている世界には実体が無い(仮にあったとしても分からない)ということで、不思議な気持ちになりますが、何にせよ自分が世界と思われるものを「感じている」ことに疑いがないとして、それを絶対的な拠り所にしたフッサールはまさにコロンブスの卵だと感じた次第です。
にしむらもとい
最終結論が正しいかはともかく、フッサールさんは示唆に富むアイデアをたくさん残しているので、今の時代、もう少しきちんと見直されても良いと思います。
B
特に、他者と理解し合わなければならないとき、これが重要になってくると思います。そして、その他者がそれに気づいていないとき、ややこしくなる。

■2

A
第6講冒頭
『哲学的思考の初歩の初歩。その第二点目は、「問い方のマジック」にひっかからないということにある。 「問い方のマジック」、それはいわゆる二項対立的な問いのことだ。』

A
「問いの立て方」にも哲学的な思考・議論する上で基礎になってくるといういうことは発見でした。
二項対立的な問い、ともすれば「哲学的」な問いと一般的にされている題材も(愛かお金か、とか。)この問い方のマジックに該当するようなものもあると感じます。
筆者は哲学の目的を『共通了解』の形成にあるとしていると私は感じましたが、つまり『共通了解』が得られるような、それを想定した問いかけをすることがキチンとした議論の土台になるのではないかと思います。
C
私も共通了解を想定した問いかけというのは大切なことだと感じました。
仕事の中でも、議論しているうちに段々、お互い論破されないように応酬していく雰囲気に変わる瞬間があるのですが、その時点でクリエイティビティは望めないと感じています。
どうしたら『共通了解』を得るための場づくりってできるのでしょうね
にしむらもとい
論理的な話で言うと、AかBかという命題は結構危険で、AかAでないかで分けないと論理的にMECEにすらなってないことが多い気がします。2つのパラメータで世界を塗り分けるというのはかなりあやしい。「白か黒か」という問い方をすると、いやグラデーションとしてグレーもあるだろうとなりますが、「赤か青か」という問い方をすると、そのグラデーションの表現はとても難しくなり、濃淡を見ているのか何が対立してるのかわけがわからなくなります。なので、二項対立的な議論自体そもそも僕は反対ではありますが、とはいえ、現実問題としては二項対立的に議論せざるを得ない状況(会議など)は多いので、せめてそれがそもそもあまり論理的ではないことを受け入れて、論破を目的としない意識を持てれば良いのになぁと、本当に思います。論破に意味がないというのは僕も以前から主張してたことですが、ある程度思考をグルグルすると皆同じ結論に至るようですね。

論理への強過ぎる信頼をリセットし、「論破」の無意味さを自覚することが重要かと思いますが、その重要性を日常生活で意識することはできない気もします。日常生活では「論破」できたら無双できますからね。やめられない止まらない。非日常のエクストリームな思考訓練をしないと論理を超えて『共通了解』を目指そうなんて思わない。求められる前提条件があまりに膨大過ぎて、その場だけで場づくりするのは無理でしょうね。現実的には、むしろ、議論相手と一緒に飲みに行くとか家族ぐるみで付き合うとかそういう「非合理的」な何かで埋めないと埋まらない気がします。そうなると、正攻法より裏で手を回す「不正」の方が実は「正しさ」に近い気すらします。

そもそも教育の段階で論理の限界みたいなものを教えられれば一番良いとは思いますが、政治家というのは論破の民の最高峰ですからね。政治の概念自体が変わらないといけない。まだまだ未来は遠そうです。
A
現実的な話になれば「話が通じる」人だけで議論がなされることなんてほぼないですから、哲学的・論理的な議論をする前にまず「話が通じない」人を「話が通じる」人にしないといけなくなるんだと思います。だから会議の前にまず根回しをする日本的企業文化も、ある種正解に近いような気もします。全員が「話の通じる」人なら、ストレートに議論すればいいですが。
論理的、哲学的な思考を積み重ねていけばいくほど、現実とのギャップに苦しむのかもしれませんね
C
>政治家というのは論破の民の最高峰
笑ってしまいました。
その世界で成功体験を積み上げすぎると、もはや後戻りはできないですよね。
会議前の根回し文化も確かに共通言語のための地ならし作業ですね。ただ、やりすぎると国会質問の事前通告よろしく、その場がただの儀式になってしまうのが難しいところです。
B
@にしむらもとい
会議とかに論破は無意味ですが、時には論破が必要な時があります。例えば部下を先導(扇動)するときとか。意識して使い分けると本当に最強と思います。
ていうか、果たして帰謬法は論破なのか?って思います。
B
@C
根回しと国会の事前通告は違うと思います!限られた時間で国民の権利を守るためのものなんです。
C
@B
国会の事前通告も『2日前正午ルール』を守る守らないで攻防してますよね😐
突然質問ぶちかましたい野党と、論破性能高めときたい与党の熱い戦い、という構図に映りますが、その陰で国民の権利を守るために官僚や色々な方が汗を流してくれているのは感謝しかありません。
私は『情報の受け手が情報処理を行う時間・リソースが不足することによる相互の不利益を避けるため』であるという点では根回しと事前通告は同じかなと思います。
ただ、国会とイチ会社の会議とではそれがもたらす意義や影響の大きさは異なる話とも感じます。

■3

D
第14講
『結論から言っておくと、こうした「思考実験」のほとんどはニセ問題だ。』

D
子供の頃ハーバードの白熱教室のトロッコ問題について議論する映像を見たことがあり、子供ながらにこれが哲学かぁなんて思っていたんですが、これも所謂ニセ問題なんだと改めて認識できました。(所長のトロッコ問題についての動画を見た時に問題として成立してないのは気付いてました。)また、『導きたい結論に合わせて、いくらでも都合の良い思考実験の舞台を設定することができる』というのも言われてみればその通りだと感じました。思考実験なるものは自分の思考を説くための道具に過ぎないのだと思うと虚しくなりました。
今回この本を読むことで、哲学という学問の中身ではなく"哲学とは何か"を少しだけ知れたような気がします。哲学に対するリテラシーが全く無い私でも読みやすい一冊でした。
にしむらもとい
トロッコ問題をニセ問題と断言できるのは哲学のリテラシーとしては出発点だと思います。考える価値があることとないことを分別できないと、わけのわからない思考に振り回されますからね。そして、いわゆる「理系」の学問を修めていくと、膨大な論理(知識)に溺れて自分で「意味」を考えることを忘れがちになります。数式で高度な表現の記述を覚えれば覚えるほど、基礎より応用に意識が向かってしまう。「科学とは仮説の別名である」ということを忘れずに、どんどん勉強を進めて欲しいと思います。そういう「方向性」のことを哲学だと思ってもらったら良いと思います。それこそIUTも、いまの数学とは別な基礎理論の可能性に心を開いたからこそ生まれたもので、応用(演繹)の意識しかない人にはその方向性は絶対発想できないものだったと思います。

■4

C
第9講
『疑える可能性のあるものについては、これを思考の出発点としないのが哲学の鉄則』

C
これは思考の本質であると同時に、また実際に実行するのは結構難しそうだと感じました。
疑える可能性を極力排除するにはどうしたらよいでしょうか。事象から不要な情報を取り除き、私にとっての“確信”だけにすれば疑いようはなくなるでしょうか。
取り除きまくって、結果、玉ねぎのように全部剥けちゃって私の確信なんか特に無いんじゃないか?という不安を抱いたりもします。
にしむらもとい
これはやり過ぎると「沈黙」という選択肢しかなくなります。私にとっての「確信」って絶対的なものだろうか。確信の定義って何だろうか。そもそも言葉の定義って何だろうか。とか思い始めると、言語哲学の領域に足を踏み入れることになります。やっぱり哲学はエクストリームなもので日常生活には馴染まないなぁと思います。でも、疑える可能性のあるものだとしても、現にそれがアイデアとして思いつき存在するってことは、何か意味のあることではなかろうかとも思います。グルグルしますね。ひとしきり全てをグルグル一周したら、ウィトゲンシュタインに倣って沈黙するしかない。なんて不自由なんだろうと思います。
B
自分が哲学する目的が大事だと私は思います。
玉ねぎのように確信なんか特になくなったところから始まる物語もありますよね。

■5

C
第13講
『「どのような条件を整えたなら、人は困っている人に手を差し伸べようと思うだろう。?」このような考え方を、ここでは「条件解明の思考」と呼ぶことにしたいと思う。』

C
なぜ人を殺してはいけないのか?ではなく、人はどういうときに人を殺したくなるのだろう?と考える。自身の価値観を一方的に押し付けるのではなく、非常に謙虚かつ建設的な思考だと思う。(殺人を例に出すべきではなかったかもしれないが)
いわゆる“相手の立場になって考える”という思考に近いのではないかと思う。
ただ結局どこまで行っても、“人の行動原理を解明した気になっている自分”“相手の立場に立っている気になっている自分”がいるだけなのだということも忘れてはならないとも思う。 私の場合、こういった思考を意識すると、“俯瞰的な自分”に酔っている自分が見えて先に自己嫌悪が来てしまう。そしてメタ構造の迷路に陥ってしまう。そんな31歳。
にしむらもとい
たとえば、いまのコロナの問題にしても、外出させたくなければ、外出するなと命令するより、飲食店に店を閉めたら補償金出すとかそういう外的な条件付けしていった方が行動はコントロールできると思います。でも、これも結局、人は皆一定の条件で一定の行動を取るという「おごり」を含み得るので、万全ではないと思います。「こんな条件だとこんな人はこんな風に困っている人に手を差し伸べる確率が高い」という言い方しかできません。こうした条件をたくさん集めれば「科学的に」役立つ法則は導けると思いますが、僕はあまり哲学的な思考ではない、あくまでも現場で事態を打開するための現実的妥協策でしかない気がします。それが悪いと言っているわけではありません。
なので、そこにメタ構造を感じてグルグルしてしまう31歳の姿は、極めて正しいと思います笑
C
民主主義下においては各個性の平均値が代表意志だとするのが合理的であり、その限りで条件集約的な統計思考は素晴らしいのだと思います。
失業給付金制度なども所得と労働意欲のバランスを「平均的に見て」決定されています。
ただ、ミクロデータを使って研究していますと、こうした統計の誤差(残差)にこそ興味が湧きます。例えば単純な最小二乗法においても推定時にことごとく外れ値をたたき出してしまうサンプルにこそ人間の面白みを感じます。本人は生きにくいのかもしれませんが笑
個人の個性すら効用関数として単純定式化してしまう現代の経済学と哲学的思考では少し距離があるのかもしれないと感じました。経済学も昔は哲学的領域であったような気がするのですが

■6

A
第2講『むしろ宗教は、原始時代の人類が、自然を合理的に理解するために作り出したものだったのだ。  現代人が、数式や記号を使って世界をいわば〝コード化〟(構造化)するように、太古の人類もまた、「聖」と「俗」という区分によってこの世界をコードしていた。』

A
「科学も宗教の1種」といった話は度々耳にしたことがありましたが、その逆も然り、といった感じでしょうか。
世の中の理解不可能なものや理不尽に苦しんだ人々の行動として、それを何がしかの枠組みに当てはめることで、そこに法則性を見出して、それを何とか理解しようとする(自分の管理可能下におこうとする)という行動を取るという点では宗教も科学も違いはないということですね。
C
言語化することで事物を征服したいという欲求に基づいているという点において、両者は共通しているかもしれませんね。
ただ人類はその後、権力者が「聖」のコードを纏うことで宗教を社会的な意味づけに利用していった(王権神”授”等)点では科学とは異質かもしれませんね。いや、その点でも同質かも。
何を宗教と定義するのかも難しいですよね。
A
個人的な意見ですが、宗教の特性は「救い」(本書で言うところの生きる意味を与える)じゃないかな、と思います。科学はどこまでも理解可能性、検証可能性を突き詰めましたが、宗教の最終目的は世界の理解というよりか、それを通じた「苦しみからの解放」にあるのかもしれません。
むしろ私は科学を当たり前と思えるレベルまでに受け入れているからこそ、救いが得られないとも言えるかも?
C
宗教で得られる救いについては、本当に体験した人にしか分からない世界があるのだろうと思います。
leap of faithという言葉もあるように、それまでの価値体系や規範体系からまさに飛び込んだ人にしか得られない境地があるんでしょうね。
私はクリスチャンではありませんが、学生時代チャペルでゴスペルを歌ったり催し物をしたりしていました。
親の代から入信していた方、大病や不幸をきっかけにまさにbig leapをした方、様々な方がいました。
おっしゃるとおり、救いとしての宗教は科学との親和性は低そうですね。熱心なクリスチャン物理学者はどういう心のバランスのとり方をしているんでしょうね。
にしむらもとい
宗教も科学も、僕はどちらも「フィクション」であって、そういう意味では違いはないと思うんですが、宗教には「教典」があるのに科学には「教典」がない気がします。科学的手続きを踏まなければ科学なんてちいとも機能しないのに、科学的手続きそのものについて、教育を受けたことがない。当たり前だよね、で済まされてます。そこから生じた科学の「実り」についてはたくさん習いました。なので、現代の社会は、教義を秘匿したまま、大衆にただ科学の正しさだけを強要している感覚があります。科学は「俗」から切り離されすぎたというか、コード化が高度化し過ぎて(ダジャレではなく)大衆が素朴に信仰できるレベルを超えてしまってる気がします。宗教は「信じる」ことが全てに先立ち、信じるからこそ救われるわけですが、科学は実りを求めるばかりで、もはや「信じる」ことが先立っていない。そして、科学という最大の「宗派」が宗教として欠陥を抱えてる(信仰心を高めるための信者へのフィードバックを果たす儀礼がない)ので、大衆に科学を説く「自称聖職者」がSNSなどで猛威を振るうことになるのだと思います。「科学サイド対エセ科学サイド」(ヒーロー対ヴィラン)みたいな構図をSNSで見かけない日はありません。僕には叩かれている「エセ科学サイド」が一概に悪とは思えません。どちらが正しいかとかより、構図そのものに虚しさを感じます。ともあれ、現代に最も大きく欠けているものは「信仰」かなと、僕は思います。僕は自分の「思考の在り方」に信念を持つことで「信仰」のバランスを保ってますが、世の中には「信仰」を剝奪されて迷える子羊が溢れかえっているように見えます。もっと無邪気に「科学」なりなんなりを皆で信仰できれば、どれほど生きやすい世の中になるだろうかと思ったりします。
C
↑で使用されている”信仰”のイメージについて少しお伺いしてよいでしょうか。
私は普段こういう会話をしないのでお話しされている意図を取り違えてどんどん会話の齟齬が広がってしまいそうで不安が笑
世界と自分をつなぐ言語として科学を使用する場合、本著内の言葉でいうと私の意味の世界は科学により描かれますが、別にこれが宗教という言語であっても行為自体の本質は変わらない。そういう「何かを信仰する」≒「世界と自分をつなぐ任意の言語を選択する」
という意味で信仰という言葉の定義のイメージは近いでしょうか。
もちろん前提となる知識量が全く違うので同じ認識を得るのは不可能かと思うのですが...少しでも理解を近づけたく
にしむらもとい
@C 意味を立ち上げるのはあくまでも言語であって、その言語によって紡がれたフィクション、つまり物語が、宗教や科学だと僕は解釈してます。言語と、科学(宗教)とは、そもそも段階というかカテゴリが違うかな。個人的には、「科学という言語」という表現にすごい違和感を覚えます。科学は言語ではない。宗教も哲学も言語ではない。細かくてすいません……。
もっとシンプルに、言語によって紡がれたフィクションに「現実感を持つこと」が「信仰」ということで良いのではないでしょうか。現実感が大きいほど信仰が強い。現実感(脳による錯覚)が信仰の源なので、信仰には、論理的であることよりも、長時間その価値観にさらされて触れ続けるみたいなことの方が重要だったりするのだと思います。信仰の強さとはその価値観と共に過ごした時間の長さと言い換えられる気もします。したがって、論理で信仰は打ち消せない……。
というのが、僕の解釈です。言葉の定義をすり合わせるのは、なかなか難しいですね。 
C
@にしむらもとい ありがとうございます。だいぶクリアになった気がします。
現実感、その価値観とともに過ごした長さ、という感覚はストンと腑に落ちる気がします。
確かに言葉のすり合わせは厄介ですね。(同じ日本語なのに)
めんどくさい質問に丁寧に答えて頂きありがとうございます。

■7

A
11講『ところが現代の僕たちには、近代人ルソーには思いもつかなかったもうひとつの不幸の本質がある。  自分の欲望が、そもそも何なのかが分からないという苦しみだ。(中略)そんな時、僕は学生たちに、次の二つの方法をアドバイスすることがある。 一つは、価値観や感受性を刺激するものにたくさん触れること、そしてその経験を、人と交換し合うことだ。』

A
あまり本筋とは関係のないところですが。
自分もこんな悩みがあったタチですが、幸い社会人を経験した時に解消されたかな、と感じています。
気の合う人気の合わない人、気を使う人、様々な人と付き合う中でむしろ自分について理解することが多かったように思います。
このコミュニティを通じて何かやりたい事が見つかるといった人がもし出てくれば、参加者としてとても嬉しいです。
にしむらもとい
僕はわりと理屈くさい融通の効かないカタい奴と思われてる気がしますが、僕自身やっぱり若い頃に理屈ではない情緒的な部分で、生身で他人とぶつかり合うことで得たものは大きかったと感じてます。僕がYouTubeで一方的に情報発信するのではなく、こうしたコミュニティの在り方をわざわざ模索してるのも、人と人の身体性を保ったつながりというのを次の時代へどう昇華させれば良いのかに強い想いがあるからです。なかなか難しいですが。

■8

C
抜粋ではないですが、自由の相互承認という概念に非常に興味を持ちました。あいまいで危ういバランスの概念である気もしますが、そうであるからこそ現代を生きる人類の手で守らねば、という情熱を文章内で感じました。
そして著者の苫野氏は教育実践家でもあるんですね。
今年4月開講予定の学校もコロナで大変みたいですが、こうした思想を前提に育まれる知性というものにも興味が湧きますし、何より希望が持てます。

にしむらもとい
僕は、民主主義は今後、新しく生み出される情報技術と不可分に混ざり合うことで新しい概念に昇華され得ると思ってます。テクノロジー自体が主義にフィードバックされてゆくと言いますか……。だから、専門領域を横断して思考できる人がそういう時代を切り拓くのだろうと思います。
苫野さんの試みについてはあまり詳しくないですが、調べたところ義務教育段階の学校を始められたのですね。コロナでタイミングが悪すぎでいま大変でしょうね。ただこういう試みは、プランB的なうまくいかなかった時の子供にとっての現実的な出口もちゃんと考えてあげているのかは少し気になります。子供を大人の実験のおもちゃにはできないですからね。ともあれ、新しい試みは応援したいです。
C
確かに教育という分野は一人の人生を左右しますから実験にしてはだめですね。
とはいえ多様化の中で様々な思想背景の学校が出るのは喜ばしいことだと思います。
私も応援したいです。

■9

E
第13講
『命令の思想ではなく、条件解明の思考。これこそ、現実的な力強い哲学的思考なのだ。』

E
筆者の「哲学は答えを出してこそ」の考え方では、考える過程ではなく、結論を重視しています。この一文で言われていることは、筆者の言う共通了解を求める一歩である一方、超ディベートでは必要な建設的態度だと思います。そこで、哲学的問題を複眼思考で考察したり、哲学書を批判的読書する際に心がけることで、筆者の望む哲学をすることができると思いました。
にしむらもとい
学問としての哲学は、正直専門家を自称したいのでない限り、あまり深く追求する必要はないと思います。「命令の思想」は非常に学問的と言いますか、「お高い」ですね。臨床的な場面においては「条件解明の思考」の方に圧倒的に軍配が上がると思います。あと、医学部の小論文なんかではよく「パターナリズム」なんて言葉が出てくると思います。そういうところと絡めておいても良いかもしれませんね。 

■10

F
「問い方のマジック」について
入試の課題英作文でも賛成か反対かで書かせますが、どちらの面も思いあたる時にわざわざどちらかに偏って書くのがどうも変だなぁと思っていました。
超ディベート的に書くのは哲学的には真っ当な姿勢だけど解答的にはやっぱり無しなのかなぁ。

にしむらもとい
入試的には、一応最初に「二者択一ならそっち」と明確に態度を示して最低限の議論につきあってから、字数に余白があれば、超ディベート的解決案を挙げれば良いのでは、と思います。

■11

G
第10講
『そう、僕たちの信念は、実は何らかの欲望や関心によって編み上げられたものなのだ』
『ここで重要なのは、僕たちの信念は実は欲望の別名だということだ』

G
「欲望とは、他者の欲望である」とはラカンの言葉ですが、この本では欲望の源泉についてはそこまで深く触れていませんが、人の欲望=他者の欲望だと私は思います。
車の例で言うと、今の時代300万も出せば性能的にはまず困る事のない新車を買うことができます。
それなのになぜ1000万もする外車や高級車を買う人がいるのか、それは見栄(他者から良く見られたいという欲)でしかないでしょうね。
普通の収入では乗れない高級車を乗っているという他者からの羨望が、自分の高級車に乗りたいという欲望の源泉になっていると言えると思います。
この本では、更に『ここで重要なのは、僕たちの信念は実は欲望の別名だということだ。』と論を展開していますが、「欲望とは他者の欲望である」という事を受け入れて、信念にまで結びつけてしまうと、自分の信念が元を辿ると他者の欲望であるということになってしまい、救いがない話というか、少ししんどく感じますね。
C
>>自分の信念が元を辿ると他者の欲望であるということになってしまい、救いがない話というか、少ししんどく感じますね。
どこまで行っても他人の目から逃れられないって考えると、僕も同感というかゾッとしました。
車の部分で、これは完全に興味本位なんですが、『ハイブリットであること』自体はカッコいい、羨望の対象となり得るものでしょうか。そういうエコ車に対する世の中の感覚って変わってきているのかな?と言う素朴な疑問から質問させて頂きました。😲
G
Cさん
>>どこまで行っても他人の目から逃れられない
確かに、どこまで行っても他者の目から逃れられないとしたら、ゾッとしますよね、、、
ただ、もし他者の目から完全に逃れられたとしたら、それを人間と呼べるかは怪しいですが、、、
ハイブリッド車は羨望の対象となりえますね!
見栄でハイブリッド車を購入される方もいらっしゃるので笑
有名どころで言うと、アクア(AQUA)は名前のー水ーが意味する通り、低燃費で地球に優しいというのがコンセプトです!
ただ、実際はハイブリッド車は通常のガソリン車よりも50万円ほど高く、元を取ろうとすると8~9万キロは走らないといけません。
結局元を取るという話になった途端、長距離走行が必要となり、その分燃料も必要なので、本当にエコなのかどうかは怪しいです😅

にしむらもとい
精神分析、フロイトや特にラカンは、若い頃に厨ニ病感覚でかなりハマりました笑 用語がカッコイイですからね笑 でも、結局何ひとつ腑に落ちなかったので、いまではあまり読み直すこともなくなりました。精神分析は、僕にはどこまで言っても土台が宙に浮いてるようにしか思えません。
僕は、欲望とは言語作用であり、したがって他者の欲望などというものは存在せず、自身の欲望しか存在しないと考えてます。あんまり突っ込むとまた日常から離れたエクストリームな話になりますが、「他者の欲望」というものを理解するには、まずそもそもの「欲望」という概念の理解(了解)が必要で、それは自身の「欲望」のアナロジーからしか出てこない。つまり、「他者の欲望」というのは「自身の欲望」のアナロジーであり、「他者から自身への羨望」というのは、自身を投影した他者(つまり自身)の自身への再投影という「グルグル」になるのかなと思います。現に、僕は他者からの羨望目的で高級車に乗りたいとは全く思いません。それは、僕自身が高級車に乗りたいという欲望を持っていないため、その欲望がグルグル再投影されることがないという理屈だと思います。僕も、ご多分に漏れず以前は高級ドイツ車なんぞに乗ってましたが、いまは仕事で自動車が要ることもない生活をしてますので、売り払ってチャリンコで生活してます。十分幸せです。そんな自分が「幸せ」と言語的に認識することで、他者からも「ちょっと風変わりな幸せを享受してる変な人」と見えれば満足というひねくれた自意識は、たぶんあると思います。まさに自身の欲望の二重の投影になっていて、本当の他者の欲望など介入していない。全てはアナロジーからしか生まれず、アナロジーの「意味」は言語でしか理解(了解)できない。
説明をし過ぎるとめちゃくちゃ長くなりそうなのでこれくらいにしときますが、そんなわけで、少なくとも本質的な意味では他者の欲望なんて存在しないと、僕は思います。ただ、各自の欲望を言語作用で外部に意味として虚構として固定すると、価値観の共有という錯覚を形成できるので、だからこそマーケティングという経済学が成立するのだと思います。他者の欲望という錯覚を形にして扱うことが営業マンの仕事ですからね。「そんなものに本質はない」などと言われると、営業マンは仕事がなくなります笑
C
@G
ありがとうございます。見栄で"ハイブリット"という感覚もあるんですね!僕はペーパーなので、そこらへんが全く分からないので新鮮です。
元を取るために電車ではなく車に乗るようになるなら、環境的には本末転倒感がすごいですね笑
G
@にしむらもとい
まずそもそもの「欲望」という概念の理解(了解)の過程で、社会で生きている(家庭も含め)限り大なり小なり他者の影響を受けるので、欲望とは他者の欲望であると考えていましたが、確かに言語作用としての欲望を了解していないのに、その前段階に他者の欲望が出てくるのは不可能ですね笑
自身の「欲望」のアナロジーとして他者の欲望が出てき、その意味で本質的な他者の欲望というのは存在しないということは理解できました!ありがとうございます!
確かに営業活動の中には本質は無いですね笑
営業マンと顧客という立場を超越し、1人の人と人との対話というものを実現できたとしたらその中に本質はあるかもしれませんが🙃

■12

H
『正義論』(ジョン・ロールズ)という本の中で、ロールズは次のような思考実験を行っている。  社会正義を公正な立場から考えるのはとても難しい。なぜなら僕たちは、生まれながらの家庭環境や才能や性別などの影響を受けて、正しい判断をすることができないから。

H
なかなか面白い考えだと思ったが、これも”結論ありき思考実験“であると知り、読書中少し落ち込んだ記憶。きっと私も心の奥底のどこかで「生まれの差の平準化」を望んでいるのだろうと思った。この本に即して言えば、「平等」への欲望(信念)だろうか。(だからと言ってあんまりこの考えを否定したくないぼくはまだ甘ちゃんかな)
こうして信念が欲望という言葉に換わると途端に自分が少し怖くなった。自分がいかに自分のことを理解していないか認識することができ、自分を見つめ直す良い機会になった。
こう書いてみると、誰とも対話していないのに筆者の言っていた「たしかめ可能な最後の地点」に一人到達してしまっていた。本一冊で深ーい体験ができてよかった。
読み終わってから気づいたが、著者の苫野一徳さんの「子どもの頃から哲学者」が、ぼくの哲学入門書だった。なんか運命感じちゃうわ❤といっとく〜
にしむらもとい
そうやって、より確かめ可能に近い地点を目指す行為が哲学的行為だと思います。「信念=欲望」みたいな言語的転回を起こして、たくさんストックしていくことで、いずれ「違い」を生み出せる男になれると思います笑

苫野さん二冊目だったのですね。運命ですね笑

■13

にしむらもとい
土日はまとめ作業、みたいなことを記事にしましたが、既に自分の中でまとまってる人は無理にまとめなくても良いです。僕は最終日に総括はしますが、縛りを設けたわけではないので、皆さんは引き続き自由に意見を貼ってもらって良いです。

■14

C
まだまとまってはいませんが、ちまちまとまとめようと試みました。
だらだらと長くなってしまいましたので、スレッド内に書き込みます。
皆さんやはり自分とは違う部分に、違った受け止め方をされてて非常に面白いなあと感じます。
一人で読書を完結するのとはまた違った発見があって新鮮です。

C
【今回のワークショップを通じての私なりのまとめ】
1.本書に対するざっくり感想
・建設的な議論をするためのマニュアルとして非常にためになったし、面白かった。誰かに薦めたい。(読みやすい/実践的/実例付き)
2.印象に残ったキーワード
共通了解/自由の相互承認/一般化の罠/条件解明的思考/徳の騎士/欲望相関性の原理/本質看取
3.読書及び議論を通しての学び・気づき
①共通了解という概念について
それを達成することは尊くて、自身の人生においても重要であることは認識した。しかし、相手の“了解”内容について真に知り得ない以上、この概念は突き詰めるところ虚構に過ぎないと考える。詰まるところ、お互い了解できているという関係性を自身が感じられているかどうかに依存するものであり、その意味で勘違いがないように謙虚な姿勢でいようと思う。
②条件解明的思考について
きわめて実践的であるが、最終的には条件についての共通了解を必要とするものであるので、そこには①と同じく“真には知りえない”という謙虚さが必要である。統計的思考と親和性が高い思考である。統計には必ず異常値があり、対話している相手が異常値かもしれないし、はたまた自身が異常値かもしれない。そもそも分散が大きすぎるテーマでは共通了解を得ることは困難である。
③論破と現実社会で生き抜くことについて
不動産でゴリゴリ仕事をしてきたので、いろいろな人とたくさんぶつかった。成功も失敗も沢山したが、“相手を論理で叩きのめした”とき、結果としてそれが良い仕事として完結したことは一つもなかった。一度叩きのめされた相手は次から復讐が行動原理になる。ゲームのルールがガラッと変わってしまう。結果として、ギスギスした雰囲気の中、60点の成果を残すために全力を注ぐことになる。
論理の正しさはその場その場で移ろいゆくものであり、それこそ帰謬法により簡単に覆されるものであったりする。むなしいものだと思う。また、論破の際に取り扱う情報量は割と大したことなくて、それよりも論理の先にある創造性を指向したり、あるいは相手のことを慮って議論を建設的に進めようと心掛けたりする際に処理しなければならない情報量のほうが圧倒的に多くて複雑である。必要とする脳のCPUコア数で、それらの間には圧倒的な差異がある。そんなことを意識しながら論破の民にならぬよう、頑張って生きようと思った。
4.今後の宿題(考えがまとまらなかったもの)
①確信という概念について
ある事物に対する自身の確信を突き詰めようと思うと恐らくエンドレスだと思う。確信という言葉に対する定義を持たないから。なので具体事例を一つ一つ検証して、“こういう感情の時、これは確信に近いのではないか?”といったものを探ってゆけたらと思う。
ただし今それをやるには少しエネルギー不足なので持越したいと思う。中学生の頃に済ませとけよとも思うが、30を超えてこそ分かるものがあるはず・・・・
②信仰と現実感
信仰という言葉には何か思考の放棄のニュアンスを感じる。どちらかというとネガティブな印象を持ってしまう。科学を信仰する気にならないし、宗教も同じく。それはなぜなのか。この信仰という言葉への曖昧な負の感情をどう整理するかが今後の課題。なんとなく“知性の限界” というワードに答えがありそうな気もする。
また信仰の“選択”についても考えを整理したい。ある価値観を信仰することをその価値観に現実感を持つことだと定義してみる。今、目の前のものをすでに現実として捉えている自分にとってはもちろんそれは現実なのだが、それが現実である前に、事前に“それが現実であってほしい”と願った自分がいたとしたら、彼にとっては当然未だ現実ではない。でもそれを願ったには何かしらの理由があるはずで、その理由は信仰とどういう関係にあるのか。映画マトリックス1で青い薬を選ばずに赤い薬を選んだネオはなぜそれを選べたのか。救世主だからという意外に理由付けができるのか。思考がまとまらないので、他の読書や日常生活の中でヒントが得られればと思う。

■15

B
今日やっと読み始めたので、遅ればせながら、、、
第9講
『なぜなら、今の僕の欲望が本当に経験によって生み出されたのかもまた、僕たちは究極的には知り得ないからだ。』
『僕たちに"たしかめ可能"な最後の地点、それは、今僕がこのような欲望を抱いているということ、そしてその欲望に応じて世界を認識しているということ、そこまでなのだ』

B
全くもってその通り!!と痛感する一方、欲望も相対的かつ、現在の環境などに影響を受けるもの。自分の欲望が普遍的であればどんなに楽か、もしくは疑いえないほどの欲望をもつ者がどんなにうらやましいか。一過性の欲望なのか、どうかなんてことも考えてしまう(もちろん答えは出ないのだけども)。
また、自己の欲望について考える時、原始的なものから社会的なものまで同時多発的に存在するなか(例えばマズロー欲求5段階)自分はどこに向かえばいいのか、なんてことに迷うこともあるなぁー。
これは第11講の欲望がわからないとは違う。
にしむらもとい
よくよく考えると、欲望って何なのか、本当に難しい問題です。たしかめ可能な地点を求めていくと、究極的には生理的欲求(理屈で説明がつかない)レベルにまで帰着してしまう気もします。どんなに高度に社会的な欲望に見えても、根本は原始的なものなはずだろうということで、それを見抜けると、問題は少しシンプルにできるのかもしれません。

■16

B
第10講
『信念対立を乗り越える』

B
ディベートや"哲学"ならば、乗り越えたり本質を捉える思考が大事だし、共通了解を出すことに意義がある。でも、(この本の主旨とは違うが)実践や現場においては、相手の欲望を踏まえた上で納得・説得・説明・偽騙(そして、こちらの優位にもっていく)しないといけないんだよなーってことを感じ・考えてしまう大人になった自分が汚く感じる。
また信念対立を乗り越えるなら、同程度の知的水準(知識・論理的思考力・思考をすすめる前提etc...)が大事な気がする。
欲望が全く対立する場合"共通了解"を得るためにはどうすればいいのだろう。。。。
にしむらもとい
個人のレベルを超えた話をしてみます。
たとえば、現場というのを、それこそ国家間の紛争のレベルまで想定すると、悠長に共通了解なんて言ってられなくなりますね。そうなる原因は「国家」というものの線引きというか定義の問題な気はしますが、ともかく明確に信念(自らの立ち位置)が対立した陣営の利害関係の調整という政治的な場面においては、共通了解(納得)ではなく外部的な契約事項(虚構)を作り上げて共有するしか道がない。個人を抜け出した概念としての「信念」が対立する陣営同士が欲望を調整して共通了解を得ることは、どこまでいっても僕は無理な気がします。個人的な話し合いなら、最終的に歩み寄って信念をひとつにまとめることはできるかもしれませんが、国家と国家が歩み寄ってひとつに合体することはあり得ないですからね。

■17

B
第14講
『無知のヴェールとロビンソン・クルーソー状態』

B
これは本当に陥りやすい。思考実験のように明らかに架空の設定ならまだしも、具体的な物事について考える時に、感情や経験の影響で本質から関係のない条件や正しく条件を捉えられてないこともある。
やはり、欲望が全く対立する場合はどうやって"共通了解"を得ようか。。。。
にしむらもとい
獲得して身につけたバイアス(偏見)を自覚して選別するというのはとてつもなく難しいことですね。そもそもバイアスがなければ物を考えることもできない中で、どうやってバイアスを自覚的に取り除けば良いのか。本質を見抜くと言っている本質という言葉にもたぶんバイアスはかかってます。わけがわからなくなってきます。

■18

にしむらもとい
一応、時間になりましたので、簡単に総括したいと思います。
今回課題として選んだ本についてですが、初日の記事で述べた通り、これは皆で建設的に議論をする「前提」の確認を意識してもらうために選んだものです。皆さんそれぞれが、これから様々議論をするにあたり「出発点」を意識して発言をする気持ちを持っていただければ、それで十分です。「難しい話をしよう」という場を設定すると、通常は専門家を呼んでの専門知識の応酬という形になり、誰かが作った概念や用語を参加者が後追いで暗記してゆくというのが、その場から得られる効果になるかと思います。でも、できることなら概念や用語は、暗記するのではなく、本当に腑に落ちるところまで納得して欲しい。納得すれば、「忘れる」なんてことはあり得ません。「〜とは何か」を考えるメタ視点を持ち、日常皆でなんとなくふわふわと使っている言葉たちを、定期的に机の上に並べて点検してみて欲しいと思います。
初回でしたので、『ワークショップ』全般についても触れておきます。時間を直接共有することもなく、特に責任も義務もない議論の「場」だけを置いておくという形式は、なかなか成立させるのが難しいということを、実感しました。いろいろと改善点は感じますが、とりあえず心理的な敷居がまだまだ高い気がしました。カフェや居酒屋で話す感覚で参加して欲しいんですが、それを実現するにはメンバー同士がもう少し距離を詰めておく必要がある気もしました。なので、Zoomを使って(セキュリティ上あまり使いたくはないんですが)のオンライン飲み会(未成年はオレンジジュース!)とかを定期的に開催しようかと思いました。発言の内容を練る以前の問題として、もう少し間違いや恥を気にせず、場を読むという空気も減らして、ハードルを下げたいところです。来週はまあまあ重ための本なので、また参加しづらくなるかもしれませんが、忙しくて読んでる暇がないという人も、読んでないなりに何かひっかかりを見つけて発言してくれると嬉しいです。僕は自分も参加者として参加しているわけで、純粋な意味でのファシリテーター(進行役)の位置にはいませんので、誰が進行を担当するでもなく、皆の気持ち次第で議論が自然と活性化してゆく雰囲気をどう作っていくか、というのをこれから試行錯誤していきたいです。
理論上は一人で読書をするだけでも、情報の入力、加工、出力全ての訓練は可能ですが、こうした場を持って、ある程度皆で共有して進めることで、かなりのアシスト効果が得られると思います。自動車のようにアクセルを踏むだけで駆動力が得られる、とまではいかないですが、つまり、あくまで自力で駆動はしないといけませんが、電動アシスト自転車くらいの補助は得られるはずです。まだまだ改善の余地はありますが、この行ないが皆の知的生産に活用されてゆくよう、当然僕自身も活用できるよう、今後も最善を尽くしてバランス調整していきたいと思います。
それでは、初回のワークショップ、これにておひらきにします。お疲れ様でした。
(反省会や言い足りなかったことなどあれば『控え室』でどーぞ)

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