見出し画像

ヨガ哲学 ”スワディヤーヤ”

聖典に触れ、心に栄養を与える時間


ナマステ!
Zuddha Lotus Yoga にてヨガ哲学の通訳をさせていただいている順子です。

物質世界で生きていると、どんなに気をつけていても、
ふといろんな心配事や、欲望、体調不良など、
マーヤ(幻想)にがんじがらめにされてしまうことがあります。

幻想から自分自身を本当の現実へと引き戻すために
ヨガには様々なプラクティスがありますが、
哲学の勉強はその一つ、「スワディヤーヤ」ですよね。

聖典を勉強するとはどういうことか。
聖典とは、「神や、神的存在、聖人の言葉が書かれたもの」を指します。

ヨガを実践していると自己観察がデフォルトになり、
日常で起こる出来事や人間関係のトラブル、
自分の思考のパターンなどを、「これってこういうことか」と
「自分なり」のヨガ的視点で捉え始めることが多くなると思います。

一見、日々の暮らしのを全て「ヨガ」というレンズを通して捉え、
いかにも理解を深めているように感じられるのですが、そこが大きな落とし穴だとも思うようになりました。

聖典、つまり神の言葉に触れると、自分がいかに、「わかったようになっていた」かを思い知らされます。

今勉強しているラーマの物語は、聖典の中でも「バクティヨガ(愛と献身のヨガ)」というジャンルに該当します。ラーマが「慈悲の海」「喜びの源」「正義を体現するもの」としてこの世に現れ、私たちのような一般市民との交流を通して、本当の意味での世への奉仕とは何か、いわばお手本を見せてくれる、というストーリー。

神様(神性)は偉大で、私たちは無知であるということ。

日々、つい可愛がり大きく育ててしまう「わたし」は、
全てを知っている神様の無限さに触れたとき、自分の真のポジションに気づくことができます。
そしてそれを一瞬でまた忘れるのが人間の性ですよね。

私たちは常に、自分でマーヤの墓穴を掘るようにして深く潜っていくような性質があるように思います。そしてその闇、苦しみを自分でどうにもできなくなった時、解放を求めて、人は、神に祈るのではないでしょうか。

週に1回、ウェイロン先生と哲学を学ぶこの90分は、いつの間にか私にとって心に栄養を与える時間になっていることに気がつきました。それはFaith、目に見えない偉大な存在を信じる心に水やりをすることで、神様の光が無知の闇を照らし、マーヤからの出口を気づかせてくれる時間です。

こないだ、長年哲学クラスを受講されているナチさんがおっしゃっていました。

聖典「バガヴァットギーター」は、至高神としてのクリシュナの、荘厳で崇高な教えを。「ラーマヤーナ」は、慈悲深く、民を救う英雄としてのラーマの、親しみやすい兄弟愛、隣人愛を。どれも神の性質なのだけど、全く異なったムードで語られているよね、と。

聖典を学ぶ素晴らしさは、神様の偉大な性質を、いろんな文脈で知れることにもありますね。

私たちの意識は、触れるものによって常に大きく影響されています。
ということは、何に影響されたいかを意識的に選ぶことが大事ですよね。
そうであれば、紀元前から数千年かけて、世界の多くの人々に愛され続ける「愛」と「献身」のエッセンスが散りばめられたこの作品の学びを、日常に取り入れてみませんか。

きっと、マインドのノイズがすーっと静まって内側から満たされたり、
生きている喜びにふたたび繋がったり、
今ここにあるものに感謝が湧いてきたり、

何より、もれなく、ラーマの名前が入っている「マハ・マントラ」を唱えることが
今までよりももっともーっと喜びに、さらに至福を呼び起こすようになるという特典付きです!(笑)


Jay Sri Ram!


挿絵 by バドリ・ナラヤン

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?