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【past post】Mio zio, Antonio.

※昨日投稿した「「語り」について潜る夜」にて、今ここにいない人との対話、ということについて触れた、作家アントニオ・タブッキの追悼行事のこと。以前に別の場所でまとめていましたが、改めてここにも再掲いたします。時間関係の記載、当時のままであることをお含みおきいただければ幸いです。

<on 21/10/2013>
アントニオ・タブッキ 水平線の彼方へ ANTONIO TABUCCHI OLTRE IL FILO DELL'ORIZZONTE

3月25日に亡くなったイタリア人作家、アントニオ・タブッキ。彼を称えるための、展示、映画上映、シンポジウム等の一連のイベント。今日はそのシンポジウムに行ってきました@イタリア文化会館。

会場には、イタリア語講座の講師としてお世話になった先生方の姿があり、また同時通訳のイヤホンからは、懐かしい?(かつていろいろやりあった)アマデイ先生のお声が(笑)

前半(午前中)は、タブッキのパートナーであるマリア・ジョゼ・ランカストレさん、若手の作家アンドレア・バイヤーニ氏、そしてタブッキの多くの作品の翻訳を手掛けており、かつ15年来の友人でもあった和田忠彦先生が登壇。

バイヤーニ氏の講演は衝撃的だった。衝撃的に魅力的だった。題は「ナイトテーブルの上のタブッキの夢」。とにかく語り口が絶妙で、喩えのひとつひとつが魅力的なイメージを伴っている。(同時通訳と月面との遣り取りの謂い/私たちは電球が切れたあとでも、何度も何度もスイッチを押してしまう。はっと気付いて赤面し、「つくわけないよな」とつぶやく。でも、それでもその仕草を繰り返してしまう/「生きている人は、モノのなかに亡くなった人を探す」というのは、連載編集中の「いのちとモノ」第7回、東北のカフェ・デ・モンクについての記事と重なる)

『レクイエム』における、「夢のなかでの亡くなった父との邂逅」という設定を巧みに取り入れバイヤーニ氏の夢に上述のタブッキの夢が入り込んできた、という話はもうそれだけでひとつの小品、上質の戯曲になっていた。取り違えられた夢をめぐり、「逸失“夢”相談所」という秀逸な仕掛けを登場させ不在の人の記憶をあるべきところに収めようとする様子を描いた笑品。

そのエッセンスは、「不在」についての語り。不在の人と、私たちはいかにして交流するのか。バイヤーニ氏にとって、また私たちにとって、タブッキと語り合うための依代、魔法の呪文になるのは、宗教的な祈りの言葉ではなく、文字。本という「小さな黒板」を通して、死者との会話、絆が生まれる、と氏は結んだ。

物語としての魅力もさることながら、「語り」の力に圧倒された。その場の空気を通して、声がつくる物語が、会場にいた人たちの頭のなかにつくりあげられていく。簡単なイタリア語の遣り取りが混じっていたことで理解できた部分もあるけれど通訳の音声ではなく、バイヤーニ氏自身の語り、息づかいやリズム、間の取り方など、その伝えようとすることがbody to bodyで伝わる、そんな体験だった。このあとのセッション、発表でも、「声」はひとつのキーワードで、またこの週末には、再びタブッキをめぐる朗読会いに参加するつもりだけどその前段階としても、非常に刺激的な講演、いや物語体験だった。んー、作家すげ~!(正直にそれが一番の感想 笑)

続く和田先生、同時通訳をストップして、伊語・日本語とも自らの言葉でカタログの冒頭にも記されたタブッキへのメッセージを読み上げる。最後まで読むと、感極まって思わず涙を流されていた。聞いているこちらも胸がが詰まる。『いつも手遅れ』の訳者あとがきに記された、逝去の報を聞いたときの先生の思いを改めて思い出し、個人的には当時のあることについて、チクッと胸が痛む。来週、直接そのことをお話する機会ができたので、素直に気持ちをお伝えしよう。

午後の部は、いとうせいこうさん、堀江敏幸さんの講演&セッションを和田先生が司会としてリード。ここでも話題は、「不在」を巡って。「存在しない小説とは何か」という問いは、そのまま「小説とは何か」に通じる。いとうせいこうさんの過去の小説をちゃんと読んだことがないのだけれど、ルーセリアンとしてフィクションから離れざるを得なかったいとうせいこうさんが震災後に「ルールにこだわっている場合じゃない」といって自らのことも含めて書き始めた、という発言が非常に印象的だった。

声として存在する複数の私、それを束として現前させるものが、小説。どちらも陳腐な言葉として理解されがちな「私小説」「ヒューマニズム」についての、積極的な解釈。文学、創作すること、語ることについて、こんなにも希望が感じられるものか。

すぐそばにいて、気軽に話をすることができる。自分から何かを言ってくれることはなかなかないんだけどでも立ち居振る舞い、その存在自体が、大事な何かを伝えてくれる。

Mio zio, Antonio. 僕の、おじさん。
タブッキはそんな存在だって。

澤田直先生の、ペッソーアという視点を通じた発表も「夢」「亡霊」「遊び」をキーワードに、不在なる人をいかに召還するのか、ということを論じていた。ポルトガル語の郷愁(サウダーデ)は、過ぎ去ったものへの思いではなく不在のもの、未来のもの、あり得たかもしれなかったものをこいねがう思い。それを現前させるのは、物語を語る「声」。「声」が不在を呼び起こす、それは「創造」という行為の源泉そのものでもある。

小池昌代さんのお話もまさにその「創造」の源泉に関わるものだった。タブッキの作品における声、会話、応答という構造の魅力に触れ何もないところに、会話が、言葉が流れを作り出し、その流れがいずれ大きな奔流となって物語が作られる。まるで宇宙の創造のような、スケールの大きな話。そして、ひとつひとつの物語において引っかかるところは、それぞれに小さな誌の宇宙でありその素材、断片が織り成されて、物語という宇宙につながる。

広いホールがひとつの宇宙のようで、その片隅にタブッキがいるようなそんなすっかり熱にうかされたような錯覚に陥ってしまった。(澤田先生曰く、ペッソーア・ウイルスは次々と感染するし、同様にタブッキ・ウイルスも皆に影響しているのではないか、と。名言)

一日のシンポジウムの〆には、登壇者が順番に、それぞれのタブッキのテクストを朗読。twitter等でも多くの人が触れているように最後の最後に、タブッキのお孫さんによる「夢のなかの夢」のフランス語の朗読がすべてを持っていった(笑)。

夢と不在と声、そんな一日でした。

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