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まさかの展開~浪江町ツアー

福島県浪江町の「見学ツアー」に行ってきた。

今年の夏、学生時代の友人たちと山中湖に、遊びに行き、
そこで始まった「子どもプロジェクト@浪江」の続きです。



当日、「集合場所」に朝8時に集まり、車で出発した。

参加者は、私の同級生2名、呼びかけ人のシスター(元担任の先生)と、同じ学校の卒業生の私たちより「お姉さま」80歳の方、計5名。

「首都高」から、「常磐自動車道」へ入り、順調に進んだ。
途中、1回だけパーキングエリアに立ち寄り、右手に海が見えてくると、あっという間に「浪江町」に着いた。

昼食のために「道の駅」により、各自好きなものを食べ(私は「シラス丼」)「浪江駅」を経由し、宿泊先に向かった。

「浪江町」は、「ポケモン」と繋がっている~

この「浪江駅」は、建築家・隈研吾氏によって、再建される予定だ。

路線図を見てみると、意外に仙台が近いことが分かった。

浪江町は、「ポケモン」とも繋がっている。
「ポケモン」の作者のお父様が、浪江の出身という事もあり、
「道の駅」には「ラッキー公園」という場所があって、「ポケモン」の大きな遊具で、子ども達が遊んでいた。

駅構内に、「ポケモン」がいっぱい展示してあります!


「子どもプロジェクト」Meeting

浪江で「子育てコミュニティー・コトハナ」を主催している方との「会合」は、今回の「ツアー」の一番の目的だ。

忙しい時間を割いて、共同代表の方が、1名参加してくれた。

話を聞いて、「子育て」はもちろん、「生活」に必要な「コミュニティー」が、まだまだ足りていないという事が、よくわかる。

「コトハナ」の立ち上げる前に、どのような方々が、この地域で「子育て」をしているのかを知るために、8市町村(葛尾、浪江、双葉、大熊、富岡、 楢葉、川内、広野)で、「子育てサロン」を開催し、ヒヤリングを行ったというのだから、もの凄いエネルギーだ。

「コトハナ」の活動について、さらにお話を聞くと、何か「親子向けイベント」を開催しても、その後、お母さん同士が「繋がり」にくい現状があることが分かった。その一因は、参加者が広範囲から来ていることにあり、日々の活動の中で「子育てネットワーク作り」には、まだまだ苦労がある。

確かに、もともと2万人住んでた場所に、今は、2,000人ぐらいしか住んでいない。

見回しても、本当に、人が少ない。

町の中は「空き地」と「空き家」だらけという感じだった。
日常的に助け合えるような関係性を構築するには、物理的な難しさがあるようだ。

そして、私たちが今後、どのような「お母さんとの交流イベント」を企画し、「広報」をしていったら良いのか、アドバイスも頂く事が出来た。

ウンウンと話を聞きながら、2時間の会合は、終了した。


ここからが、この記事の「要」なんです!


2日目は、「子どもプロジェクト@浪江」の拠点となる「ゲストハウス」を見に行った。

クリーニング中で、お掃除スタッフの方がいらした。

この「ゲストハウス」の中に入る前に、建物の周りを確認しながら、
私たち「初老の女性5人」が、ウロウロしていた。

すると斜め向かいの家に車を止めていた、男性(初老)が、

「あんたら、ここに来るのかや~」と声を掛けてきた。

(福島の方言が違っていたらゴメンナサイ(^_^;) )

その「お家」の「お庭」がステキで、

「見て、みて~、ステキなベンチまで置いてあるわよ~」

「素敵な玄関ね~」

「わ~いいわね~」

女ばかりがワイワイと、呼ばれもしないのに、庭に入り込み・・・

すると、その男性(以下:おじさん)が、どうぞ~と家の中に入れてくれた。

家の中は、さらに凄くて、「なんでも鑑定団」的なものが置いてある。

女5人で、「この家具も素敵なね~」なんて言いながら、いろいろ説明してくれるおじさんの後をついて、家の中を見せてもらった。

おじさんが趣味でやっている「ステンドグラス」の作品が、沢山飾られていた。
これはほんの一部で、素敵な作品が室内には沢山ありました。
映り込んでいる「お馬さん」は、おじさんの「お父様」が、彫られた作品。



おじさんの話によると、この「素敵な家」は、息子夫婦と住むために「二世帯住宅」として、震災の直前に建てられた家だった。
現在は、別な場所に住んでいて、月に1~2日ぐらい、家のメンテナンスのために、来ているとのことだった。


私たちが、斜め向かいの「ゲストハウス」を拠点に、「農業体験」など、「自然」の中で、親子を対象とした活動をすることを話すと

「こんな、汚染された土地で農業なんて、あんたら、馬鹿じゃねか~」

と言った。

「うちらが、どんな思いで今、ここにいるかをわからね~でよ~。

うちらの苦労を知らずに、なんで来るんだ~と思う。

地元じゃない人間が入ってくることで、どんな思いになるか、わかりもしね~でさ~」

と、おじさんが言った。


確かに、現在の「浪江町の住人」2000名の半分は、「よそから来た人」と言われている。

その言葉に、シスターが、負けじと・・・

「だからね、私は地元なの! 

この浪江で育ったのよ、〇〇小学校だったの~、

ここの自然が、大好きなのよ~!」

するとおじさんが、な~に言ってるんだ~と言わんばかりに、
「汚染されちまって、自然もへったくれもね~」と返した。

■ メディアでは、伝わらない「当事者の話」

2011年3月11日、地震発生「直後」の話をしてくれた。

町民は、先ず「役場」を目指した。

「地震」の後、「津波」が来ることは、殆どの人が予測していた。

とりあえず、「津波」から逃げるため、苅野(浪江町 中北部)に避難することになり、「小型バス」でピストン運動で、住民は避難した。

その後、夜中に状況が変わり、原発が爆発するから「逃げろ!」という事になったが、確かな情報は、何もなかった。

もう、福島に逃げるしかなくなった。

「そこから、もう、みんなバラバラよ~」

おじさんは、ため息とともに、諦めるような感じで言った。

「いわきナンバー」を見て、バッシングを受ける、どこへ行っていいのか分からず・・・

「今の、パレスチナのガザ地区と一緒だよ・・」

と言うおじさんの言葉に、当時の混乱している様子が、伝わってきて、何も言えなくなった。

当時、小学生だった「孫」が、「ランドセル」だけを持って避難したことを思い出すと「涙が出る」と、おじさんは言った。

「おれら、どれだけ、ひどい目にあってきたか・・・・」

おじさんの言葉に、私たちは、返す言葉が見つからなかった。

■ 転々と「避難」を続ける日々

「浪江町」は、当時、「中国と友好関係」を結んでいた。
しかし、震災発生後、浪江にいた中国人は、直ぐに迎えが来て、本国に帰国してしまった。

福島県内の、他の地域と全く交流をしていなかった「浪江町」の町民は、
避難先が、決まらなかった。

もし、他の地域との交流があったら、「浪江からの避難者を受け入れてもらいやすかったと思う。」とおじさんが言った。

福島県川俣町(中通り)に、避難したが、そこは、追い出された。
双葉と川俣とは、友好関係があったが、「浪江町」とは無かった。

たまたま「二本松の市長」と「浪江の町長」が、個人的に親しかったので、二本松市が、浪江町からの避難者を受け入れた。

その後も、知人を頼ったりしながら、「喜多方」や、「裏磐梯」を転々としたと話した。


■「東電」の街だった「浪江町」


さらに、おじさんの話は、何故、福島に「第一原発」が出来ることになったのか、戦前戦後からのその土地の変遷に話が広がった。(今回は割愛します)

話を聞いていると、当時の町の「生活」や「経済」は、東京電力・東芝・日立などの大手企業によって、活性化されていた事が、うかがえる。
(ここで書けないな~と思うような話もしてくれましたが…)


おじさんは、
「黒部ダム」も「新幹線」も、工事現場で「亡くなった人たち」の「慰霊碑」があるが、「東電の原発」にはない。

「随分、工事で人が亡くなているんだぁ~」

それもひどい話だと続けた。

また、被災者に一律で支払われた「補償金」によって、人生が狂わされた人もいる、そんな話もしてくれた。
特に「銀行」と「借入者」との関係は、この「補償金」によって、ずいぶん振り回されたらしい。

「汚染水」(処理水)の放出も、1年ぐらいのことかと思っていたら、これから30年続けるって、そんな事も、「おれら地元には、何の説明もない…」

おじさんの「怒り」からは、震災や津波という「天災」だけでなく、「人災」でもあった原発事故への「悲しみ」と「くやしさ」が、溢れていた。

おじさんは、「おれは、誰にも話さね~から、今日は久しぶりに喋ったわ~」と言った。

あっという間に、2時間近くが過ぎてしまい、
「俺、仕事しなくちゃなんね~から、帰ってくれ~!」と言われ、私たちは、外に出た。

最後にシスターが
「私、馬鹿でイイんです~、とにかく来月、また来ますから~」と、おじさんに、別れ際に言った。


「悲しみ」の向こうの「希望」


偶然、出会った「おじさん」から聞いた話は、震災当時、福島の様子を「テレビ映像」だけで、観ていた私たちにとって、リアルなことばかりだった。

当時、浪江で起こった事を、何もわかっていない私が、簡単に分析などできない。感想をここに書こうかと思ったけれど、文章が浮かばなかった。


おじさんの様に当時を「知っている人」が「語り継ぐ事」は、大事だと言われるけれど、心に「悲しみ」を抱えている人にそれを強いるのは「酷」なことだ。

震災後、原発事故の「社会的後遺症」を抱えながら、
どうにか、ここまで復興し、以前ほどではなくても、外から人が来れるまでに、「浪江町」は、少し元気になったのだ。


今回「コトハナ」の方との会合で、復興に向かう中で立ち上げた「なみえ会議」というネットワークがあることを知った。そこには、現在、20社以上の「企業参加」があることを知った。
※コロナ以降は、対面式が難しくなり「オープンチャット」として、現在も継続している。


そういえば~~
浪江の「道の駅」には、「無印良品」も入っていた。


さらに驚いたのは、「日産」が協力し「水素エネルギー」のイベンが開催されている。「水素発電」だけで、イベントをやったりとか~


今回、「宿泊施設」「いこいの村なみえ」のお風呂に、みんなで入りに行った。そこのお風呂は「水素」で、お湯を沸かしていた。

「温泉ではありません。水素で沸かしています。」と看板が出ていた。

新しい試みは、始まっている。



東京に戻る前に

帰路に就く前、「旧請戸地区墓地跡地」にある「慰霊碑」に行った。

慰霊碑には、殉職した方の名前も刻まれています。

家族で犠牲になった方が多いことが、「慰霊碑」に刻まれている名前を見るとわかる。同じ苗字の方たちが、続けて並んでいるのだ。

海までは、ただ、ただ「原っぱ」だった。

この柵のところまで、津波が来た。
遠くに小さく見える建物は、震災遺構として残されている「請戸小学校」
今回、時間が無くて、行かれなかった。
請戸漁港
津波でダメになった木が、遠くに空しく立っていた。


○印のところに、第一原発があった。


浪江の「空」は広く、「海」は美しかった。

※長くなってしまいましたが、最後まで、お読み頂き、ありがとうございました。
※一部「おじさん」の話を基に書いておりますので、事実と違う内容が含まれているかもしれませんが、ご容赦くださいませ。m(__)m





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