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素人なのに初めて「株」を買った、60歳の私は、ファザコン娘だった。

母が、「あの時、株を手放さなければよかった~」と、ことあるごとに、私に言った。

30年ぐらい前、「株は売らないで!」という母の強い言葉に耳を貸すことなく、父は、事情があって持っていた「株」を全部、売ってしまった。そして、その数日後、その株価が、高騰した。

父が亡くなった後も私は、この話を母から、何回も聞かされた

「あの時、手放した株を、取り戻せばいいんでしょ。」と、私は母に言い放ち、「持つためだけ」に「株」を買うことにした。

理由はともかく、「株」を買うことを、娘に相談したら、「金(ゴールド)」を勧められた。「株」は、価値がなくなれば、0(ゼロ)だけれど、「金」は、レートが下がっても物として確実に残る、と言われた。それでも、私は「株」を買った。

手放した「株」は、父がずっと勤めていた会社の「株」だった。株主として、当然、父は、会社の株主総会にもずっと出席していた。

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父は、戦前から石川島播磨重工(現 IHI)に勤めていた。1960年に播磨造船と合併する前の東京石川島の時代からだ。

戦前、石川島の会社は、月島にあった。(現住所:東京都中央区佃)

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東京大空襲と石川島

父の家族は、戦前、現在の江東区に住んでいた。父は長男で、若い時から一家の大黒柱だった。

だから1945年3月の東京大空襲で、父の家族は、この当時、住んでいた家を焼かれている。空襲で焼け出された父と、父の家族、つまり私のおじいちゃんやおばあちゃん、そして幼かった叔父たちも、焼け残った石川島の建物に逃げ、そこで数日を過ごしている。

東京大空襲は、アメリカが民間人をターゲットにした攻撃だったから、当時、軍事工場だったにも関わらず石川島の工場は、狙われなかった。

この空襲で、一緒に逃げていた、14歳だった父の弟だけが、亡くなった。3月の深夜、オーバーを着たまま、父は、隅田川に飛び込んだ。その時、弟とはぐれた。

「一緒に逃げていた弟の遺体を確認したわけではないのに、どうして死んだと思ったの?」と私は、父に生前、尋ねたことがある。

父は、こう答えた。「家は、空襲で焼けて無くなったけれど、月島の会社は、焼け残った。だから、もし生きていたら、絶対に会社に訪ねてきたはずだ。でも何日経っても、来なかった。」 

父にとって、月島にあった石川島は、「弟の死」を確信した場所でもあったのだ。

父と石川島播磨重工

終戦後も、父は石川島に勤めた。そして、会社の労働組合の幹部をやっていた

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まだGHQの占領下にあったこの頃、組合の幹部だった父は、今でいうと社内の「働き方改革」のため、あの土光敏夫氏とかなりやり合ったと聞いている。実家を整理した時、土光さんとの一問一答の報告書とか、当時の組合運動の資料が、沢山でてきた。

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組合運動のことは、よくわからないけれど、昭和25年のレッドパージの後、名古屋営業所を開設するため、父は名古屋に異動になった。(私は、事実上の左遷だと思っている)

母の話だと、この頃、土光さんが、名古屋に来たときは、必ず父は、名古屋駅まで、呼びつけられていたらしい。父は、10年以上の歳月を名古屋で、勤務し、東京オリンピックが終わった翌年、東京の本社(大手町)に戻った。それから定年まで、勤続40年、石川島播磨重工に勤めた。

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父の会社は、子ども時代の思い出だらけ

思い返せば、自分が子どもの時、サンタさんが持ってきた、ピーターパンの絵が付いたおもちゃの赤いピアノも、お気に入りの犬のぬいぐるみも、父が、会社で働いて得たお給料が、あってこそのクリスマスプレゼントではないか。

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1970年の大阪万博や、会社の保養所に夏休みに行った思い出とか、母と話していると、会社がらみの思い出話は、尽きない。

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そんな中、ひとつだけ、残念な思い出がある。

小学生の時「父の日の宿題」で、父親の顔と仕事に関係する物を絵に描く宿題が出された時のことだ。

父に相談すると、「コンビナート」とか「ジェットエンジン」とか「タービン」とか、小学生の私には、訳の分からない言葉が出てきた。

しかもどれも灰色で、女の子だった私は、色取りの悪い絵を学校に持っていくことが嫌だった。父の仕事が、お花屋さんやケーキ屋さんだったらよかったのに~とその時思ったことを今でも覚えている。

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父との最後の思い出

いつの間にか、本社が豊洲へ移転していた

ある時、私は、仕事で、父が勤めていた大手町のビルに行くことがあった。ところが、神田駅と東京駅の間を電車に乗ると必ず見えていた、ビルの外についていた「石川島播磨重工業」の縦看板が無くなっていた。

ネットで、いろいろ調べたら、豊洲に本社を移転し、なんかかっこいい自社ビルを建てていた。

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さらに父が家族と空襲の時、逃げ込んだ月島の会社があった場所には、大きなビルが建っていて、「石川島資料館」ができていた。

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私は、HPをプリントして、父に諸々伝えた。父は、新しいIHI本社に行きたいと言った。

母も、娘も、みんなで一緒に、車で、月島と豊洲を目指して出かけた。

定年後、父は70代までは、OB会に出掛けたり、公益法人の寄付集めの仕事や、色々やっていたけれど、80代には、地元や、趣味の詩吟が中心の生活だった。だからこの日は、父にとって久々のお出かけだった。

月島の資料館(現住所:中央区佃)には、入ってすぐの場所に、若かりし頃の土光さんの大きな写真が飾ってあった。そのほかに、月島や越中島のむかしの様子がわかるような展示されていた。

父も母も、懐かしそうだった。展示をみながら「この頃は、うちはまだ名古屋にいたね~」とか、「土光さんがブラジルに出張した時、こんなことがあったね~」とか、家族で話が弾んだ。

この頃(今から12~3年ぐらい前)、豊洲には、今ほどビルが建っていなかった。IHIのビルだけが、ぴょこんと建っていた。だから、月島から豊洲に車で向かう時、遠くからでも、IHIの本社ビルが良く見えた。

豊洲は、父が定年退職の時、石川島播磨からの「感謝状」を受け取りに行った場所だ。

行った日が日曜日だったため、1階ロビーの展示ブースには、入ることができなかった。だけど、ビルの地下のお店で、お昼ご飯を食べて、帰ってきた。

それでも、父は、満足そうだった。

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「株」の話に戻ると…

様々な思い出を振り返りながら、IHIの「株」を、私は買ったのだ。

そして、何ということか! ~その途端に、株価は暴落した!

「株」を購入したわずか数週間後、「コロナの緊急事態宣言」が発令、そして!株は、暴落した。逆に、娘が勧めた「金」は、高騰した。

ちょっと待ってから買えばよかった~…

株って、こうゆうことなのか~、素人の私は一瞬で学んだ。

でも、そもそも、そんなにたくさん買ったわけでは無い。一千万とか、何百万とか損したワケではないのだ。「まあ、いっか〜~」そう思った。

やっぱり素人がやると株は、儲からないよにできている。そんなことは分かっていたけれど、どうしても思い出いっぱいのIHIの株を「持つためだけ」に買いたかったのだ。

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ファミリーヒストリーと共にある、IHIをこれからも、応援したい!

石川島播磨は、もともと造船会社だったけれど、長旅を終えて、宇宙から帰還した「はやぶさ」のカプセルの開発事業に、IHIが関わっていることを知った時、なんだかワクワクした。

父の遺品は、殆どがIHIのロゴが付いた会社関係の物ばかりだった。だからIHIの「株」を持っているだけで、ファザコンの私は、父がそばにいるような気がするのだ。

損した私が言うと、「負け惜しみ」のように聞こえるけれど、株を買ったのは、投資目的ではないから、儲からなくてもイイのだ!

でも、無知なくせして、毎日のように株価はチェックしている。

そして、その数字に一喜一憂している私なのだ。




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