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母の「ノート」が素晴らしくて、捨てられない話
母は、週3で行っているデーサービスで、何故か「折り紙の先生」と呼ばれている。そこで配られる「お菓子を入れるための箱」を、裏紙で折る作業を手伝っているから、らしい~
他の方も一緒に折るけれど、何回か教えても途中で分からなくなったり、なかなか覚えられず、みんなが、母にやり方を「教えて~」と、聞いてくるらしいのだ。
母は、間違いなく「器用」だ。
数年前、実家を片付けた時、母の古い「製作ノート」が3冊、書棚から出てきた。「折り紙の先生」の「原点」ともいえる、この古い「製作ノート」は、母が戦後通った「都立高等保母学院」の学生だった時に母が作ったのものだ。
このノートが素晴らしくて、私は捨てられない。
今でも、保管している。
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母が卒業した「東京都立高等保母学院」とは~
1948年「保母養成施設」として東京都によって設置された「高等保母学院」という学校があった。母は、この学校を「首席」で卒業した。(ホントです。) ※保母とは、保育士のこと
最初に置かれた墨田区緑町の校舎は,都立江東橋保育園(現,墨田区立江東橋保育園)の 2階に「間借り」するかたちであったが,その後1950(昭和25)年に港区麻布笄町の洋裁学 校跡に移転した。さらに1966(昭和41)年には,練馬区石神の石神井学園内の新築校舎に 移っている。
~~中略~
これにともなって「東京都練馬高等保母学院」と名称変更することとなった。また,1977(昭和52)年に制度的にまた世相的にも男性の保育者の存在がみとめられるようになると,男子生徒の受け入れをするようになった16。これにともなって名称を「東京都練馬高等保育学院」と改めた。
~中略~~
都立の責任による保母養成は一定の役割を終えたとして,1996(平成8) 年に「東京都練馬高等保育学院」は保育科の募集停止をおこない,閉校 することとなった。
ここに約50年間にわたる東京都による保母養成は終焉することとなった。
「保育所保育の歴史的変遷の中で 東京都立高等保母学院が果たした役割」より
母は、学校が江東区から港区に移転した後、通っていた。
「高樹町にあったのよ~」と母は言っている。
「高樹町」とは、現在「首都高の入り口」の名前として残っているだけで、地図からは消えた「地名」だ。(今だと、港区広尾のあたりかな~)
当時、学生たちが弾く、あまり「素晴しくないピアノ演奏」の音がうるさいと、近所から「苦情が出た」ことを母が、よく話している。
絵本「ぐりとぐら」シリーズの作家、中川李枝子さんも、この学校の卒業生だ。
当時、この学校で「リトミック」を担当されていたのが「窓際のトットちゃん」で知られる「ともえ小学校の校長先生」をされていた、小林宗作先生だった。
空襲で学校がなくなってしまった後、小林先生が「都立高等保母学院」で教鞭をとられたことを、黒柳徹子さんは「トットちゃん」の中でも書かれていた。
母は「リトミック」を、小林先生から教授された。
小林先生がピアノを弾くと「すごい音がするのよ~」と、母がよく話している。
卒業後、母は2年間ぐらい仕事をしただけで、体調を崩し退職した。しかし、同級生の方の中には、生涯、独身を貫き保育に携わり「園長」をされていた方や、「発達障害」の子どものための団体を立ち上げた方々もいる。
最近では「ADHD」とか「多動症」とか、耳にする機会が増えたけれど、まだそんなことが日本において周知されていない頃だった。「発達協会」というNPOを作り、その設立運営には、同級生の方たちが協力し、初期を支えている。
現在は引退されている、石井葉さんは母の同級生で「発達協会」の立ち上げに尽力した人だ。
母は何度か「一緒にやらないか」と活動にに誘われることがあったようだけれど「長男の嫁」だった母は、直接的に関わる事は出来なかった。
だから「会員」という形で、ずーっと支えていた。
※「長男の嫁」というのは、私のおじいちゃんとおばあちゃんとの「完全同居」の中、家事をする「専業主婦」という事です。いわゆる「二世帯住宅」ではなく、それなりの広さはありましたが、ひとつの家で、生活は一緒にしていました。
「母の製作ノート」のこと
「製作ノート」に話を戻すと…
本体は、かなりボロボロで、汚れてもいる。
でも、さすが「首席」だっただけのことはあって、3冊全部が素晴らしくて、見ていて楽しい。
今見ると、「昭和時代の感性」を感じる。
当時、先生から「ノートを貸して」と言われたことがあったと、母が話していた。わかる気がするわ~。
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写真だとサイズ感が伝わらないけれど、かなり細かい作業で、作られている。1ページが、A4サイズぐらいだ。
私自身も「幼児教育学科」の学生だった時「図画工作」とか「絵画」という授業があった。「手作りおもちゃの制作」とかも、授業でやった。しかし、保育を学ぶ者が必ずしも「手の巧緻性」に優れているわけではない。
このノートを見て、つくづく母は、「作ることが好きな人」なんだ~と思う。
このノートを、どうしよう~。
母が亡くなったら「お棺」に一緒に入れたほうがイイかな~
いや!とっておくべきだろうか~??
母の「刺繍展」をやるときに、一緒に展示したら・・・変かなあ~。
インスタには、載せてもイイかも~
いろんな事を考えてしまう、私なのだ。
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