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「母の交友関係」に私が見たもの…

現在92歳の母の「母校」は、戦前「ナンバースクール」といわれた「東京府立第六高等女学校(現:都立三田高校)」だ。今は、普通の都立高校かもしれないが、その当時「超セレブ校」だった。そのことを、知らなかった母は、入学してからビックリしたそうだ。

母のお友達はどの方も、この学校の卒業生としての「誇り」を失うことなく、年を重ねてきていることが素晴らしい。80年という歳月を、「手紙」や「電話」のやり取りをしながら交流を続け、人生の所々で、支え合いながら生きてきている事に、私は感心する。

「戦争」という「暗い社会背景」の時代だったも関わらず、母は、楽しそうに学生時代の思い出を話す。

そんな同級生の中に、野澤恭子さんという方がいた。
この方は、ご夫婦で「無門福祉会」という「障がい者福祉施設」を愛知県に設立した。私は、この事について、母から何度となく話を聞ていた。

当時、施設設立を知った女学校時代の友人たちが、寄付を募ったことも母から聞いている。

⇑ホームページに掲載されている通り、ご夫婦には知的障害の息子さん(長男)がいた。

※以下、配慮に欠ける言葉の使い方があるかもしれませんが、私自身の不徳としてご容赦ください。

母と野澤さん

私は、子どもの時、母に連れられ野澤さんのご自宅に遊びに行ったことがあった。「お手伝さん」がいるような、大きいお家だった。弟くんは、いわゆる"健常者”で、遊んだことを覚えている。
でも、「知的障がい」があるお兄ちゃんは、自分よりも年上だったけれど、言葉がちゃんと話せていなかった。お手伝いのお姉さんを介さないと、彼が何を言っているのか、私は理解できなかったことを覚えている。幼かった私は、不思議に思いながらも、「知的障がい」であるという認識もなかったので、一緒に遊んだことを覚えている。

私の母は、28歳で結婚している。
母の時代は、20代前半で結婚するのは当たり前の時代。だから当時としては、かなりの「晩婚」だった。

母は「独身時代」、野澤さんのお家によく遊びに行っては「美味しい食事」をごちそうになっていた。「すごいごちそうを作ってくれるのよ~」と楽しそうに話をする。

野澤さんは、ドレメ(洋裁学校)を卒業されていて、洋裁が出来る方だった。母は、野澤さんの家に伺う度に「洋服用の布」を持参しては「仕立て代」を払うことなく、洋服を縫ってもらっていた。
そんなある日、コートを縫って欲しくて、いつものように布を持っていくと、「若いのに、こんな地味な生地でイイの~?」と野澤さんが言った。気を利かせた彼女が「裏地」に「明るい綺麗な色の布」を使ってコートを仕上げてくれたと、母は懐かしそうに話をした。

母が結婚し、姉と私を産み「二児の母」になった後も、野澤さんとのお付き合いは続いた。

ある時、母は、野澤さんからこんなことを言われた。
「いつまでも結婚しなかったあなたが、やっと結婚した~と思ったら、さっさと2人も、ちゃんとしたお子さんを産んで…、そんなあなたが、私は憎い~」

「私のことが憎いって、彼女が言ったのよ~」と母は、この時の事を何度か私に話した。

野澤さんは、何度も流産を経験し、なかなかお子さんが出来なかった。やっと生まれた子どもには「知的障がい」があった。

まだその当時、立派に「跡取りを産む」ということは、一部の家庭において「嫁としての責務」でもあった時代なのだ。だから、当然のようにお姑さんから「文章で書くには憚れるキツイ言い方」をされ、野澤さんが、その胸の内を母にこぼしていたことを、私は聞いている。

弟くんの死

野澤さんご夫婦は、ずっと都内に住んでいた。

ある時、愛知県豊田市に所有する土地を「買い取らせて欲しい」との申し出が市からあった。この時、野澤さん夫婦は、その土地を「売却」ではなく、「寄付」することにした。そして、「障がい者施設」を設立する旨を市に申し出たと、私は母から聞いている。
(母から聞いた話なので、若干、事実関係が間違っているかもしれません。)

施設の設立後は、お兄ちゃんはそこに入所し、野澤さんご夫婦も、東京を離れ、そこに移り住んだ。

一方、成長した弟くんは、福祉関係の大学を卒業し、仕事にもついていた。ご両親としては、設立した施設を後々、引き継いで欲しかったのだろう。

ところが、ある日「無断欠勤を2日してる」と勤め先から、ご両親に連絡が入った。急いで東京の自宅を訪ねると、弟くんは、既に亡くなっていた。まだ20代前半の若さだった。

弟くんが亡くなり、野澤さんは、母に泣きながら電話をしてきた。母は、その時の事が忘れられないという。

私は、弟くんとは、幼い頃に1度会っただけで、大きくなってから会うことは無かったから、顔もよく憶えていない。けれど、母は、何度か会う機会があった。

「弟くんは、知的障がいを持つ兄がいる前提で、ずっと育ってきている。そして、『兄のための進路』を、選ばざるを得ない中で、ものすごいプレッシャーを持って育ってきたのだろう」と、母は感じていた。

弟くんの葬儀が全て終わった頃、母は、新幹線に乗り、野澤さんに会いに行った。
母が、施設を訪れたのは、この時が「最初で最後」だった。

まだ弟くんが生きていた頃、東京の自宅で野澤さんは「嫁としての務め」をちゃんと果たしていた。
彼女に対し「文章で書くには憚れるキツイ言い方」をしたお姑さんの介護をしていたのだ。

「介護保険制度」がない時代、自宅で「お嫁さん」が介護をするのが当たり前の時代だった。私の母もそうだった。介護用ベットも無く、介護ヘルパーが手伝ってくれるわけでもなく、畳の上にお布団を敷いてやっていた。

その頃、私の母は「おばあちゃんの介護」を終えたばかりだった。「自宅介護」に必要と思われるタオルやシーツを持って、母は野澤さんを訪ねた。
母が行くと野澤さんは「お友達が、お義母さんに、いろいろ持って来てくれたんですよ~」と「寝たきり」となったお姑さんに優しく話しかけていたという。

たとえどんなことがあっても「嫁」という「家庭人としての務め」をちゃんと果たしていた野澤さんにとって、弟くんの死は、全てがひっくり返されるような出来事だったのだろう。
弟くんが亡くなり、野澤さん夫婦は、私たちには想像がつかない程の「気持ちの整理」が必要だったはずだ。

この施設の「無門」という名前は、野澤さんのご主人が付けたものだと、聞いている。

<名前の由来>
「無門」は、門戸開放という福祉会の方針にちなんだ名前です。
原典は「禅宗無門関」という経典の慧開禅師の自序です。
(大道に門はない 道はいくらでもある 無門の関を越えれば天上天下自由勝手に一人歩き)
無門福祉会は「門」を解放することで、どんな方でも利用しやすく、地域との結びつきを大切にした運営を目指します。人も千差万別であるため、ひとりひとりを大切にすることで、障がいのある人がその人らしく幸せに暮らせるように願いを込めています。
無門福祉会HPより

そしてニュースレター「むもん」も、設立当初は、ご主人が作っていたらしい。確か、母の所にも送られてきていた。

知ることが出来なかった「生存」

その後、歳月は、流れるように過ぎた。
数年前、母は野澤さんの近況を知りたくて、施設に電話をした。野澤さんご夫婦が、どうしているのか「健在かどうか」を母は確かめたかったのだ。ハガキや電話でやり取りをしていた母は、年齢と共に「体調が優れない」という事は、知っていた。

すると、電話に出られた施設の方が「野澤さんご夫婦は、こちらには、おりません。お兄ちゃんは、ここ(施設)にいらっしゃいます。」とお話された。

「生きているか」、「亡くなっているのか」、あるいは「介護施設にいるのか」は、ハッキリと教えてもらえなかった。
「個人情報保護の視点」からよくあることだ。
どんなに「深い繋がり」があっても「友人」は、「親族」では無い…。

HPで近況を知る

私は最近、母の交友関係の「住所リスト」をExcelで作っている。その作業の途中で「野澤さんは、今どうされているの?」と母に尋ねた。

すると「たぶん、亡くなっていると思う。」と以前、施設に電話をした時の事を母は、私に話した。

「野澤さんの施設って、なんていう名前だったっけ~?」」と私が尋ねると、母は、しっかり分かっていて「ム・モ・ンっていうのよ~」と答えた。漢字を尋ねると「無門」と教えてくれた。

「愛知県 無門」で検索すると、「無門福祉会」のホームページがあった。そこに「1987年、野澤保、恭子夫妻により無門福祉会が設立されました。」と記載されていた。
そして2015年3月にご主人が、そして同年4月に野澤さんが亡くなっていることが記載されていた。

母は「たぶん、亡くなっていると思う」といっていた通りだったことに、特に驚くことは無かった。

逆に、施設は立派に存続していて、ご両親が亡くなっても、お兄ちゃんが、この施設で、「きっと穏やかに過ごしているのだろう」と思えた母は、安心したようだった。

今でも、母は話をする時、「お兄ちゃん」も「弟くん」のことも、「名前」で言う。「障がいがあって、会話が上手にできなくても、一つの人格を持った人間でしょ~」と母は、お兄ちゃんのことを言う。
私より少し年上のお兄ちゃんは、きっと立派な「おじいさん」になってることだろう~

ホームページで確認した「野澤さんの死」を思いながら「彼女の人生」について、母と話をした。
お姑さんを看取り、息子を亡くしながらも、立ち上げた施設は、今も立派に運営されている。

「きっと、野澤さんご夫婦は、ものすごいことをやったんだよね~」と私が言うと、母がうなずいた。

野澤さんは、今でも母にとっては「楽し思い出」の中にいる「女学校時代の友人」であり、人生のあらゆる場面で「支え合ってきた大切な友」なのだ。

彼女と母の「長いお付き合い」に、私は「深い絆」を感じる。

私の母に「おいしい食事」を作ってくれて、「素敵な洋服」を縫ってくれた野澤さんに「母が、大変お世話になりました」と、娘の私は、心からの感謝を伝えたい。


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