子供の遊びと行事

 ゲームはなかったが、遊び場は一杯あった。時間も余る程あった。
正月は凧揚げをした。田んぼに出て行けば電線もなかった。田の段差はあったが、お構いなし。凧は奴凧を買って揚げた。たまに竹を削って和紙を張り、糸を引いて揚げた。面子でもよく遊んだ。面子とは呼ばずに、ぱっちんと言った。丸い紙に武者の絵などが描かれて、大小色々あった。ぱっちんを平たい地面に置く。そのぱっちんに足を添えるようにして、上から別のぱっちんを打つのだ。うまく風を起こせると、足が壁になって空気が遮られるから、地面に置いたぱっちんが浮く。浮いて表が引っ繰り返って裏が出ると、後でぱっちんを打った方が勝つことになる。負けたぱっちんは相手の物になる。大きいぱっちんが優位には違わないが、ぱっちんの周りを下へ織り込んで工夫しているから、簡単にはいかない。小さいぱっちんに角の折り目をつけ、その角を置かれたぱっちんの下に潜らせてひっくり返すのが常道だ。織り方と打ち方が勝負の分かれ目。おかれた場所も、いまみたいにアスファルトで平坦ではない凹凸のある土の地面だから、大きいばかりが有利ではなくなる。運悪く小さな石の上に載ったりすると、下から風が入りやすくなって、負ける確率が高くなる。小さいぱっちんで、大きいぱっちんを負かすと嬉しかったが、何人か、ぱっちんの上手な子がいて、殆ど持って行かれるので、その子がいると、見ているだけとか、勝負をしなくなった。ぱっちんは二人だけで遊んだり、三人でやったり、それ以上でやったりした。複数人一緒になると、一度に何枚のぱっちんを取ることもできた。
 ビー玉も遊んだ。ビー玉遊びをする前に必ず地面を平坦にきれいにした。遠くから投げて思った通りに弾いてくれると嬉しかった。ビー玉は持っていると重いし、かさ張った。 
 チャンバラ遊びもよくやった。白馬童子や隠密剣士になった。なりたい役がだぶって喧嘩になることもあった。チャンバラは敵と見方とチームを分けて、竹を刀にして持って遊ぶ。斬られた方が負けになる。「斬ったぞ」、「斬られちょらん」、で喧嘩になることもあった。かくれんぼと混合した遊びで、山の斜面にできた茶畑や竹林などが主戦場になった。月光仮面がテレビで放映されると、大きな風呂敷を持ち出してマントにし、段々畑になった山の茶畑を飛んで降りた。大名という遊びもやった。地面に田の字を書く。大名、武士、町人、乞食と位をつけ、一番上が大名で威張っていられる。バスッケットボールで、ハンドテニスを四人でやるようなもので、自分のエリアに来たボールをワンバウンドでよそのエリアに回す。それができなかったら一段位が下がる。下位の者が共同して大名を落としたりする。下克上が激しくて、それが面白くて遊んだ記憶がある。ひき、と言う遊びもよくやった。神社の広い庭の地面に楕円の変則な島を書く。島を取り囲むように細い道を書く。その道の一箇所が大きく膨らんで基地になる。基地から島の外周を回って帰ってくればいい。外周を一周する途中に、何箇所か膨らみがあって少し余裕が作られている。島の中から、外周を回る敵を道から外へ出すか、島の中に引っ張り込む。道は殆ど狭いから、狭いところは早く走ることになる。大きい子は有利に見えるがそうでもない。島の中からぶつかって一緒に外に出てしまうと、じゃんけん勝負だ。外周を回る組は、大きい子と小さい子が一緒に走り、大きい子が的になっている間に、小さい子が一周回って帰る作戦もあった。島の中の子も、外周を回る子も、小さい子には手加減をして楽しく遊んだ。この遊びは、地面に書く島の形で勝負の綾があった。それをみんな良く知っていた。チーム分けの妙もあって人気のある遊びだった。
 三竈江神社に土俵があって、相撲もよく取った。小学校低学年から高学年まで皆一緒だ。相撲に熱中して喧嘩になることも偶にあった。神社の秋祭りには、子供相撲があって、神社の地区の子供以外にも他所から子供が来て相撲を取った。子供が土俵に上がると、大人からお花と言ってお金が出され、勝った子が貰える。懸賞金だった。小さい子から相撲取って、負けるまで土俵に残るから、五人抜きや十人抜きなどするとかなりのお金が貰えた。この相撲で一番稼いだのが弟だった。前後の年齢の子が多かったのもあったが、強かったのは間違いなかった。生まれた時、腹が光っていて心配したそうだが、それは健康優良児の証だと言われて安心した話もある。私も人並み以上に小遣いを稼いだ。小学校六年の体育の授業で相撲をしたことがある。全員で三九名だが、男女別に取って私が男の勝者になり、女の子の勝者と決勝戦をしたことがあった。相手が女の子でやりたくなかったが、やれと言われて逃げる訳にも行かず。その上負ける訳にも行かず。確か上手出し投げで、土俵の外に出したように思う。男の決勝の時は、相手の方が大きかったので、思い切って取れたが、女の子相手は困った。
 中秋の名月が来ると、といも盗み、と言う面白い行事があった。といも、と言うのは、薩摩芋、唐芋のことである。その日は地区の家々が唐芋をふかし、家の縁に里芋の大きな葉を敷き、その上に芋を置く。芋だけではない。おむすび、お菓子、小銭があることもある。夜になって夕食が終わると、子供たちは他所の家に行って、といもを盗むのだ。黙って持って行くのがルールだ。見つからないように取って来なくてはいけない。最初に行った子は全部取らない。後から来る子に残しておく。盗みに行くのは近所の家全部である。何人か子供が来て無くなることもあるが、子供は平等に回って、といも盗みに行かない家がないようにする。これが最低の約束みたいなことだった。決められた訳ではないが、遊び仲間が集まって戦利品を見せ合ったりする。そこで行きそびれた家がないか。残したままの家がないか話をする。もしあれば、誰かが走って行く。おそらく全部盗まれることが、安全祈願か、豊作祈願になると思われたのだろう。子供にとっては楽しい行事だった。
 この行事で私は一生忘れられないことがある。弟と、といも盗みに行って、食べきれない芋を取って来た。その芋を投げ合って遊んだのだ。それを父に見つかって、烈火の如く叱られた。命の危険を感じるほど叱られた。私は父に叱られたのはこの一回しか記憶にない。叩かれたり殴られたりはしていないのに、殺されかも知れないと本当に思った。食べ物を粗末にした。遊びの道具にした。理由はこれである。戦争で食べる物がなくて、辛い体験をしている人にすれば当然のことだ。父は戦時中、当時旧制中学生で博多に勤労動員に行かされ、玉作りをさせられた。食べるものがなく、農家の子だから米は隠し持っていたが、あからさまに食べられない。夜寝静まってから、押入れの中で、蝋燭で米を炊いて食べたことがあると言う。経験から食べ物を遊びにするのは許せなかったのだ。母や祖母がとりなして何とか命は拾ったが、兄弟は三竈江神社の暗い森にある大きな神木の椋の木に、前と後ろで縛られた。昼間は遊び場だが、夜は闇だ。梟が鳴いてムササビが飛ぶ。泣いて謝ったが許してくれず、父は帰って行った。神社から家までは百m位だが、途中道は曲がり立木があって父はすぐ見えなくなった。中秋の名月の夜だから神社の拝殿が見え、拝殿の奥の闇が見えてさらに怖かった。どのくらい縛られていたか。泣くのも諦め涙も枯れてから、祖母が助けに来てくれた。縄を解いてつれて帰ってくれた。その恐怖があって、食べ物は残さず食べるし、粗末にしない。好き嫌いはしない。
地蔵子という行事もあった。一般的には地蔵盆だと思う。何かの日に、毎回家は違うが、順番に地区内を回る。当番の家の仏間に上がって、十mはあると思う大きな数珠を、子供達が輪になって回すのである。お題目みたいな言葉を唱える。参加している子供全員が順番にお題目を唱える。自分で創作して唱えるところがあり、面白いことを言って笑わせたりした。数珠を何回か回し、お題目を唱え終わると、必ずその中の最年長の子に数珠を持っていき、ぶつけるのだ。日頃何かと頭の上がらない下の子供達は、この時とばかりにぶつける。木で作られた数珠は子供の握りこぶしより大きい。それが幾つも繋がっている。まともに当たれば痛い。頭に瘤ができることもある。ぶっつけで終わると、お菓子などが振舞われた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?