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泥臭さは省かれがち
努力している人ほどその努力を表に出さない。
これはある意味正解で、ある意味不正解だと思っている。
人間、美談が非常に好きなようで、古来から現代にいたるまで同じような傾向の話を耳にする。
話のキモであるはずの「泥臭い面」が大幅にカットされることだ。
豊臣秀吉を例に出してみると、彼の話の多くが後世の作り話である。
例えば、墨俣一夜城。
敵陣の背後に一夜にして城を作ったことで主君・織田信長に認められたエピソードとして有名だがこれは脚色されている。
実際には三日三晩費やし、秀吉も兵士に発破をかけるために大量の金をばらまいたという。
「ひとたらし」といわれる秀吉があの手この手で信長の期待に応えようとした、という一番肝心な部分が抜け落ちてしまっているのだ。
会社の給与査定制度が年功序列から成果制に変わっていきはじめて久しい。
確かに会社にとってはプロセスはどうあれ結果さえ出してくれればそれでいいというところもあるだろう。
だが、本当に評価されるべきは努力した過程にあってもいいのではないだろうか。
スマートに物事をすることだけがすべてではないと、私は思う。
ただ勘違いしないでほしいのは「頑張っていたら結果が出てなくてもいい」という話ではないことだ。
過程も大事だがそれに見合った成果が出ていなければ、過程が真の意味で評価されることはない。
墨俣城の話もそうだが、結果的に秀吉は信長の遠征の功労者として評価されたが、もし城が完成しなかったらどうなっていただろうか。
第六天魔王を自称した信長のことだ、苛烈な処置が待っていたのは違いない。
どうも最近は「泥臭い」「人間味のある」部分を省いて物事を話すのがトレンドのようだ。
人を引き付けるには結果として出た数字がものを言うとはいえ、なんだか寂しい気持ちもする。
私は、あくまで個人的な意見だが、もっとほかのライターやブロガーが頑張っている姿を知りたい。
「自慢?」とか言う輩は脇において、本当に切磋琢磨したい人には響くはずだ。
少なくとも私はモチベーションにつながる。
さて、余談ついでにもうひとつ。
秀吉の有名な話に「草履」のエピソードがある。
寒い日に信長が履く草履を懐で温めていたという話だが、これは後世の作り話である。
ただ、この手の内容の作り話は珍しいと言える。
話の対象に悪意がないうえに、出世するためにガムシャラになっていた秀吉の人間臭さを象徴するエピソードだ。
スマートに出世・成功することだけが人の心に響くわけではないのだ。
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