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第二新興丸、敵潜水艦に反撃!

 『烏の浜』では潜水艦に攻撃を受けた3船のうち、「小笠原丸」の状況について詳しく書かれています。
 吉村先生が「小笠原丸にしぼって調査した」ため、あとの「第二新興丸」と「泰東丸」についての記述が少なくなっています。

 そこで関係書物や生存者の証言から「おおよそ間違いない」と思われる内容を要約し、お伝えいたします。

小笠原丸に続き潜水艦の攻撃を受ける

「第二新興丸」は民間の貨物船であったが、海軍に徴用(ちょうよう:国が強制的に取り立てること)され、前・後部に12センチ旋回砲各一門、25ミリ機銃14丁、爆雷投射基2基、機雷敷設道2道で武装する特設砲艦に改装された
 千島列島に点在する部隊への食糧や弾薬の補給や、津軽、宗谷海峡の連絡路の確保などが主な任務であった。
 また、同艦は機雷敷設艦でもあった。敵の艦艇の侵入を防ぐため津軽、宗谷の海峡の機雷敷設が重要な任務であった。

 8月15日、千島列島で終戦の知らせを聞いた第二新興丸は、翌16日に大泊に入港、休む間もなく引き揚げ者を乗せて大泊と稚内を往復していた
 20日夜、同艦は4回目の引き揚げ者を迎えに大泊港に着いた。

 夜を徹して荷役作業が行われ、朝までに千数百俵の米、粉味噌などが積み込まれた。その積み荷を平らにならし、麻布を敷き、その上に引き揚げ者を収容した。

 第二新興丸は、21日午前九時頃、引き揚げ者及び乗組員合わせて約3,600人を乗せ、稚内を目指して出港した。
 だが、正午前輸送司令部から「稚内の受け入れ能力が限界に達しているので、入港先を稚内から小樽に変更せよ」という通信が入ってきた。

 艦は進路を小樽に向けた

 夜に入って雨が降り出した。海峡を抜ける頃からシケ模様となり、艦は大きくローリングした。甲板には幾張りものテントが張られていたが、入りきれない引き揚げ者たちは、毛布や衣類を引っ張り出して雨に打たれていた。
 
 午前4時、副直将校の中沢宏航海士が当直を引き継いで、艦橋に立った。艦は焼尻島沖を通過していた。雨は止み、海はようやく凪ぎを取り戻していた。
「右30度、距離1万メートルに船らしきもの発見」と電探室から報告があった。すぐに双眼鏡で捜したが空は晴れていたが、海上は朝もやがかかっていたため、それらしいものは確認できなかった。

 中沢は大泊港出る前にソ連の艦艇が南下しているらしいとのうわさを聞いていた。そのことが思い出されたが、宗谷海峡からかなり日本側に入って来るとは考えられなかった。

 しかし、不安はぬぐい切れないため、右舷の見張員に「右前30度をよく見張るよう」と命令した。
 まさかその正体が敵潜水艦であるとは考えもしなかった。

「右50度、雷跡!」
突然、右舷見張員が絶叫した。
瞬時に中沢が
「面舵一杯!」
と命令し、操舵員が舵を右に切ったときには、艦は大きな衝撃を受け、艦内は真っ暗になった
 艦は瞬く間に大きく右に傾くと同時に艦首が下がり始めた。

 大音響と衝撃で仮眠をとっていた航海長の中山は飛び起き、艦橋に向かった。魚雷攻撃を受けたのだと直感していた。艦橋に着いたが、すでにエンジンは止まっていた。
 「全員配置につけ!」
との放送が鳴るなか、兵士たちは甲板に駆け上がっていた。

 すぐに被害状況を確認し、魚雷が当たったのは機関室横の「二番船倉」であることが判明した。
 この爆発で横12メートル、縦5メートルほどの大穴が開き、二番船倉の上部にあった「前甲板のマスト」は付け根から吹き飛ばされ、直径7,8メートルの穴も開いた
 このため右舷横の穴から入った海水は、マストの穴から吹き出していた。機関室が無事であったため、艦は微速前進で再び動き出した。

魚雷が直撃した二番船倉

 魚雷攻撃を受けた「二番船倉」には引き揚げ者たちがいた。
 その一人工藤キヨは大きな爆発音と衝撃で気を失った
 気がついたときには「何か」によって体が押さえつけられ、動くことが出来なかった。「何か」は引き揚げ者の荷物、積み込まれていた味噌や米、そして「人」であった。

「人」のほとんどは死んでおり、残りは虫の息であった。上を見上げると、何かがぶら下がっている。
 それは「空気が抜けて二つ折りになった人形」に見えたが、吹き飛ばされた死体であった。
 キヨは何とか抜け出し、穴の開いた天井から降りてきたロープにしがみつくと、甲板にいた者たちによって、引き上げられた。
 甲板を見渡すと、やはりそこも死体で埋め尽くされていた。そのなかにはわずかながら動きがある者もいたが、しばらくすると周りの死体と一緒になった
 「頭に傷がある」とキヨは誰かから声をかけられた。頭に手を当てると固まっていた血が取れ、血があふれ出た。だが、幸いにもすぐに脱脂綿と包帯で血を止めることができた。
 キヨが引き上げられた二番船倉からは、船首が下がると海水が甲板に吹き上がり、その中に魚雷で吹き飛ばされた者たちの頭や足とともに助けを求める叫び声があった
 そして次に艦首が上ると二番船倉の海水は渦を巻きながら深い井戸のように落ち込んで、海に引きずり込まれていった
 しかし、キヨは出口付近にいたため、奇跡的に助かったのだった。

折れたマストが突き刺さる!

 直撃を受けた二番船倉だけでなく、甲板上でも状況は悲惨であった。
  甲板にいた石川喜子は、いきなり下から衝撃を受け、宙を舞ったかと思うと、甲板にたたきつけられた
 あたりを見渡すと今まで人でいっぱいだった甲板には喜子と50過ぎくらいの男だけだった。あとは皆海に落ちてしまったのだろう。
 喜子は何かわからない物の下敷きになっていて、それにより海に流されなかったのだ。

 男は倒れたまま動きもせず「抜いてくれ!抜いてくれ!」と言っていた。雷撃で吹き飛んだメインマストが真っ二つに折れ、串刺しのように男の体に突き刺さっていたのだ。男の眼球、内臓は飛び出しており、唸り声をあげていた。
 喜子は渾身の力を振り絞り、自分の体に乗っている物を押しのけることができたが、その時すでに男の息は絶えていた。
 喜子は首のあたりが生暖かいので手を当てると、手が血まみれになった。顎のあたりから出血しているようだが、意識がもうろうとしているためか痛みは感じなかった。
 何をしていいかわからず、ただ茫然と甲板を歩きまわった。

*このときの様子を当時9歳だった男性が、NHKのニュースで証言しています。

婦女子が乗るボートを切り落とす!

 水兵であった池田外雄は引き揚げ者を最後部甲板に誘導した後、担当である右舷の救命ボートに向かった。ボートにはすでに30人ほどの婦女子が乗っていた
 池田は乗っている者たちに「ボートを降ろす兵が足りない」、「ボートから降りないとボートを降ろせない」と伝えたが、一度降りると乗ることが出来なると思ったのか、動く者はいなかった
 その時どこからか若い士官がやって来て「お前たちだけ逃げるのか!」と言ったが、乗っている者たちはそれでも動かなかった
 それらの反応に異常に興奮した若い士官は、突如軍刀を抜くとボートの後ろのロープを切った。ボートは空中に直立したようになり、乗っていた婦女子は絶叫とともに海に落ちた。
 常軌を逸した若い士官は、さらに残った前部のロープも切ったため、ボートは海に落ちた
 池田たち水兵はボートから落ちた者たちにロープを投げ入れたが、誰もつかむ者がいなかった。この狂気の士官を恐れたのか、皆浮いている物につかまり、艦から離れていった。

潜水艦浮上!交戦開始!

 そのころ右舷から2隻(3隻との証言もある)潜水艦が浮上してきた。艦内には「総員戦闘配置」のラッパが鳴り響いた。水兵たちは12センチ旋回砲2門、機銃14丁の覆いを外し、戦闘配置についた。
 潜水艦は浮上するとすぐに第二新興丸の甲板に向けて機銃掃射を始めた。
 魚雷攻撃を受けて呆然と甲板に立ちすくしていた引き揚げ者と救助にあたっていた水兵たちは、逃げる間もなく、機銃の餌食となった。
 機関科の水兵長や引き揚げ者が被弾し、悲鳴が甲板上に飛び交った。
 機銃、砲門に配置着いた水兵たちはすぐにでも応戦したかったが、艦長から命令はまだ出ない。固唾をのんで艦長と潜水艦を見ながら命令を待った。
 潜水艦の水兵が大砲に向かって走っていくのが見え、砲身がこちらに向けられたその時「撃て!」と艦長の命令が出されると同時に12センチ旋回砲2門と機銃が一斉に火を吹いた。

*攻撃したと推測されるソ連潜水艦

甲板上で響く題目とうちわ太鼓

 甲板付近で生き残っていた引き揚げ者たちは水兵の誘導で、後甲板に向かったが、狭い通路には死体や重傷者たちが積み重なっていた。
 その上を歩くことをためらう気持ちはあったが、どうしようもなかった。
後部に来ると機銃と大砲が聞こえた。

 そのうち座り込んでいた老婆が恐怖を紛らすように「南無妙法蓮華経」と題目を大声唱えながら、うちわ太鼓を一心不乱に鳴らし始めた。大砲が鳴り響くとともにその唱える声と太鼓の音は高くなっていった
 戦闘の伝令の邪魔になったのか、水兵が「艦は大丈夫心配するな」と怒鳴ったが、その声は機銃の音でかき消された。
 潜水艦に向けて機銃・大砲は轟音をたてながら火を吹いていたが、その音に負けじと引き上げ者中から「君が代」(「海ゆかば」であったかもしれない)」の歌声が流れ始めた
 死の恐怖から黙っていることに耐え切れず、数人だったのが、しだいに大合唱となっていった。ついに指揮官らしい兵が「やめろ!」と怒鳴ったため、一瞬で静かになり、大砲の音だけが響いた。

砲弾命中?潜水艦は姿を消した

 やがて1隻の潜水艦の前に大きな水柱があがり、瞬時に海中に没した。もう1隻もあとを追うように姿を消した
 海面には黒い油が漂っていたので、1隻は沈めたと思われた。 

 その後潜水艦は浮上することも、攻撃することもなかったので、第二新興丸は留萌港に向けて微速前進し、約70kmを3時間以上かけ入港した。

引き揚げ者・水兵会わせ3,200人が生還したが、艦に残った遺体と海に流された者を併せると死者は400人と推定された。
 生還した者の中には手足を失うなど重軽症者100人以上にのぼった。

 この状況を生存者女性が語ってくれていましたので下の動画をご覧いただいて、今回の報告を終わります。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。m(_ _)m
 次回は泰東丸の悲劇を報告いたします。
(`・ω・´)ゞ

#実話 #読書 #吉村昭 #戦争
 

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