見出し画像

うずく“自決の傷跡”

文春文庫『総員越シ』に収録されています短編小説『手首の記憶』は1945年8月17日におきた、樺太太平炭鉱病院看護婦集団自決事件を描いています。今回はこの小説の調査報告をいたします!

吉村先生は自決の経緯を何によって知り得たのか?

前回お伝えしたとおり、この小説は作者の吉村昭先生が取材していません。
では、誰が事件を取材したのか?

実はこの小説に新聞記者として登場している「金子」さんです。
金子さんは実在の人物で北海タイムス(1998年廃刊)の記者でした。
そして、小説のとおり「樺太終戦ものがたり」の取材、執筆をし、連載終了後には『樺太1945年夏 樺太終戦秘録』として1972年8月に講談社から刊行されました。

この本ですが、偶然にも私が稚内の「殉職九人の乙女の碑(九人の乙女の像)」を見て知った「真岡郵便電信局事件」(8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した)を調べるために、20年以上前に古本屋で購入していました。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B2%A1%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E5%B1%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6


この『樺太1945年夏 樺太終戦秘録』の229ページから232ページに「看護婦の集団自決」と題して、事件の経緯が書かれています。

私は「これを基に吉村先生は小説を書いた」と思いましたが、吉村昭先生が『手首の記憶』を小説新潮に初出したのは1971(昭和46)年1月号です。一方金子さんの本の発刊は小説より半年以上後の1972(昭和47)年8月であるので、半年以上前に本の原稿を読んだか、それとも別の資料があるのか?

改めて金子さんの本を読みかえすと、ナント「あとがき」の最後の5行に、金子さんが吉村先生に資料を渡したことを書かいてありました。

 私の豊原中学校当時の恩師、奥山鍠吉先生から、樺太の終戦史をまとめることが戦争否定につながる意義を説かれ、執筆をすすめていたころ、作家の吉村昭先生が樺太の終戦についてお書きになるため調査に見えられた太平炭鉱病院の看護婦の集団自決を題材にされたのだが、参考にと新聞のスクラップをお見せしたのがきっかけで講談社にとり上げていただけることとなった。私としては望外の喜びであった。素直にご好意にあまえ原稿をお渡ししたのである。

このように金子さんは吉村先生に「参考にと新聞のスクラップをお見せした」とのこと。
では、その記事はいつ新聞に掲載されたのか?
そこで、小説を読み返すと

 八月十五日の朝刊に、金子の取材した看護婦集団自決の記事は大きなスペースをさいて活字になった。「樺太終戦秘話・うずく自決の傷跡」という見出しの下高橋婦長以下六名の遺影が並び、うつろな表情をして語る鳴海寿美の写真も掲載されていた。

と書いてありますので、この記事を探したところ、、、ありました!
事件から25年、1965(昭和40)年8月15日の北海タイムスの記事です。

見出し、自決した6人の写真、自決の状況を語る鳴海さんは小説そのままです。
また鳴海さんをだけではなく、亡くなった6人全員の名前が小説通りです!
前回報告した『逃亡』では、登場人物は仮名でしたが、小説化する以前に新聞で報道されているため、実名で書いたと思います。

なぜ23人中6人だけが死亡したのか?

この小説を既に読まれた方および前回の投稿であらすじを読んでいただいた方は、この疑問を持たれのではないでしょうか?
看護婦の持つ知識で確実に死に至る方法をとったはずですが、絶命したのは6人でした。(もちろん死者が少ない方いいです)
そこで、「小説」・「新聞記事」・「樺太1945年夏 樺太終戦秘録」からその時の状況を比べてみました。
小説では

 自決が、婦長の手ですすめられていった一人々々に注射針が刺しこまれ水筒の水で睡眠薬が多量に服用された。が、それだけでは蘇生の可能性もあったので、婦長が手にしたメスで手首の血管を切っていった

と書いています。
実行方法で整理すると
婦長が他の看護婦に注射をした
②睡眠薬は各自で飲んだ
婦長がメスで手首を切った
のようになります。

次に新聞記事は

 17日未明、高橋婦長はみんなにわびたあと、それぞれが注射をうち、薬を飲んで自決を図った。しかし、避難の途中、薬のびんが割れ、致死量には足りなかった。そのため手首の血管をカミソリで切って出血死も考えた。高橋婦長は、ひるむ若い看護婦を一人ひとり、しかりつけながら切ったが、もう最後のころには、注射がきき始めて力を失い、倒れかかるからだにムチを打っては切ったという。

それぞれが注射をうつ(婦長 ⇒ 各自
②それぞれがを飲む (睡眠薬 ⇒ 
③婦長がカミソリで切る(メス ⇒ カミソリ
について小説との相違があります。

さらに新聞記事から1年後に発刊の『樺太1945年夏 樺太終戦秘録』には

 17日未明、高橋婦長はあらためて、死を選ぶしかなかった自分の不明を詫び、それぞれが自決用に所持していた劇薬を飲み、注射した。しかし、ソ連兵をみかけて逃げるときにころんで薬びんが割れ、致死量にたりないことを知っていた。そのため手首を切って出血死をも、と高橋婦長は看護師の手首をつかんで血管にカミソリの刃を立てた。若い看護師は死を覚悟していてもカミソリで切ることにひるんだ。婦長はにじり寄ってそれを叱りつけながら手首刃を立てたが、やがて自らが力を失い、倒れるからだを起こしては狂気のように掻き切ったという。

このように書いてあり、新聞記事との違いは「」が「それぞれが自決用に所持していた劇薬」となっていることです。
ではその「劇薬」とは何か?
また「注射は何の薬を使用」したのか?(飲んだ劇薬の可能性もある)
残念ながらこれがわかる資料を見つけることができませんでした。
(先ほど少しだけ紹介しました「真岡郵便電信局事件」では「青酸カリ」が使用されていましたが、「青酸カリ」は「工業用」として使われるので、医薬品を扱う病院では常備されていないと考えております)

以上のことから、17人が死に至らなかったのは
①劇薬が致死量にたりなかった
②手首の出血が少なかった(婦長の意識がもうろうとしていた)
の2つが要因だと考えられます。

看護婦の孫を心配するお婆さんの行動によって救出される

劇薬の量が少なかったことで、17人の看護婦は死にきれず、生死の境をさまよっていました。
しかし、現場近くの佐野造材の従業員に発見され、救出されました。
発見が遅ければ、さらに死者は増えていたことでしょう。

発見の状況について、小説では次の様に書かれているだけですが、

 彼女たちが近くの佐野造材の従業員に発見されたのは、自決をはかってから30時間以上もたった8月18日の朝であった。

実は佐野造材の従業員が偶然発見したのではなく、生き延びた17人の看護婦のうちの一人工藤咲子さんの祖母が看護婦たちの後をつけていたことが、発見につながったのです。
新聞記事は次のとおりです。

 ここまでの道、ずっと看護婦の孫娘、工藤咲子さんのことが心配で離れずにいた病院の付き添いのおばあさんが、オロオロと不安そうに山を見ていたことで、飯場の人たち(佐野造材の従業員)にもわかったのだという。

孫を思う気持ちによって、17人の看護婦は生還できました。
そして、2週間後17人看護婦たちは亡くなった6人の遺骨とともに太平炭鉱病院に帰りました。
手首に巻いた白い包帯は、ソ連兵も感動させたのは小説のとおりです。

亡くなった6人の慰霊碑について

札幌の護国神社に「樺太太平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑(平成 4年 7月11日建立 建立者 殉職者看護婦慰霊碑建立実行委員会)」があります。

その慰霊碑の後ろには、亡くなった6人の名前と享年が記されています。

これを見て「何か違う気がする」と思った方は、この小説をかなり熟読されていますね。
「また鳴海さんをだけではなく、亡くなった6人全員の名前が小説通りです!」と「小説」と「新聞記事」は「実名」で記載していると、新聞紙面の写真のあたりで書きましたが、この碑文の看護殉職者名と年齢が違うのです。
小説では亡くなった6人について、
高橋ふみ子33才)
石川ひさ(24才)
久住きよ子22才)
真田かずよ19才)
佐藤春江(17歳)
瀬川百合子(16才)
と書いていますが、碑文には
高橋フミ32才)
石川ひさ(24才)
久住キヨ19才)
真田和代20才)
佐藤春江(18歳)
瀬川百合子(17才)
と石川さん以外、結構異なっています。
平成4年に改めて確認されたのですね。

看護婦の集団自決事件はあまり知られていませんが、この様に慰霊碑も建立されていることで、忘れ去られることはないでしょう。

実話調査隊の第2回目の調査報告は以上です。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。m(__)m

#実話 #看護師 #読書 #吉村昭

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?