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若き看護婦たちは自ら命を絶った

小説『手首の記憶』の実話調査

今回紹介するのは吉村昭先生の『手首の記憶』です。この小説は小説新潮1972(昭和47)年1月号初出、1973(昭和48)年2月に毎日新聞社より単行本「下弦の月」に収録、刊行。そして1980(昭和55)年12月文春文庫「総員起シ」に収録、刊行された「短編小説」です。

最初に投稿しました「実話調査隊出発!」にも書きましたが、吉村先生は『膨大な資料、数多くの関係者からの証言を取材し、徹底的に「事実」を追求』する作家です。

しかしこの小説については、吉村先生は当事者に会っていないのです。その訳は「総員起シ」文春文庫の「文庫版のためのあとがき」に書かれています。

 「手首の記憶」は、戦史をもとにした私の小説の中では、異例のものと言える。それは、事件の体験者である当時の看護婦であった女性に、私がだれ一人として会っていないからである。彼女たちが、どこに住んでいたかは知っていた。が、私は敢えて会うことをしなかった、と言うより会うのが辛かったのである。戦史小説を書く人間としては失格だろうが、この短編を読んでくれた読者は、その理由を幾分でも理解してくれると思う

戦争の悲惨な経験について、多くの方からの証言を聞いている吉村先生が、「会うのが辛い」と言うほどの「悲劇」のあらすじをお伝えします。

硬く口を閉ざす生存者

 1965(昭和40)年、樺太からの引揚者である、北海道の新聞社記者の金子は連載中の「樺太終戦ものがたり」の執筆のため、当時戦火に巻き込まれた一般市民の取材に力を入れていました。そのうちに彼は、樺太の太平炭鉱病院で働いていた看護婦が集団自決をしたことを耳にし、現在も小樽で看護婦をしている生存者に取材を試みますが、かたくなに拒否されたため、記事にすることを諦めました。

 それから5年後、北海道のテレビ局のディレクター深谷は終戦の日に戦争関係のドキュメンタリー番組を作るため、金子に企画協力を求めました。金子は諦めていた看護婦集団自決事件を伝えます。深谷が小樽の看護婦に取材を試みるも、やはり拒否されます。しかし、看護婦ではないが事件を知る女性の消息を手掛かりに、他の生存者の消息をつかみ、ついに事件の内容を知ることができました。

8月15日を過ぎてもソ連軍は戦闘をやめなかった

事件があった太平の位置

 1945(昭和20)年8月9日、ソ連の参戦によって樺太は戦場となりました。同月15日、天皇の終戦を告げる放送があっても、ソ連軍は戦闘をやめず、翌16日未明、事件のあった太平の町はソ連機の銃爆撃にさらされました。さらに太平の北西にある塔路にソ連軍が上陸し、避難民がなだれ込んできました。太平炭鉱では、所員に避難命令を発し、炭鉱病院に収容されていた100名近い軽症者たちも、午後になると避難したため、太平の町に残ったのは看護婦23人と重傷者8人のみとなりました。

逃げ遅れた23人の看護婦たち

 看護婦たちにも避難命令は出ていましたが、看護婦として8名の重傷者を残すことができず、留まっていました。しかし、ソ連軍の攻撃が迫り、重傷者たちに逃げるよう諭され、避難を始めます32歳の婦長を筆頭に16歳までの23人看護婦たちは南へ向かって逃げましたが、その方向からもソ連軍が攻めてきたのです。

 進むことも戻ることもできなくなり、婦長は自決を決意します。他の看護婦たちにも、死を選ぶしかないという気持ちが伝わりました。やがて23人の看護婦たちは、小高い丘の上にあるニレの木の下で婦長を囲んで座り、婦長が「君が代」を歌い、そして別れの挨拶が始ます。そのうち誰ともなく18歳の看護婦に「山桜の歌」を歌ってほしいとの声があり、歌い始めると他の者も歌い、合唱となりました。

 その歌が終わると婦長は、自決の準備を始めました一人一人に注射針が刺しこまれ、水筒の水で睡眠薬が多量に服用されました。それだけでは蘇生の可能性もあるので、婦長がメスで手首の血管を切りました。17日の昼になり、5人がぼんやりと意識を取り戻しましたが、包帯で自分の首を絞めたり、メスを手首に突き立てるなど、死の世界に戻ろうと残された力を振り絞るのでした。

 18日の朝、看護婦たちは自決現場の近くにある造材所の職員に発見され、婦長、24歳の副婦長、22歳、19歳、17歳、16歳の看護婦の6人が絶命していました。残る17人の看護婦は奇跡的に生存していました。生き残った看護婦たちは造材所の職員たちに抱きかかえられても「放っておいてほしい」と拒みますが、職員たちはただ黙って背負い、丘を下っていきました。

 8月25日、樺太の戦闘は収まり、17人の看護婦たちは、亡くなった6人の葬儀をおこないました。葬儀には、婦長の父親が参列し「私の娘が死んでくれて本当によかった。責任者として生きていてほしくなかった」と涙ぐみながら挨拶をすると、看護婦たちは肩をふるわせて泣きました。いつの間にかこの自決はソ連兵にも伝わっていて、手首に白い包帯を巻いている看護婦たちには、近づくことすらありませんでした。

亡くなった6人に申し訳ないとお詫びをしながら、そっとこの世を去りたいのです

 1970(昭和45)年、自決事件から25年、新聞記者の金子は生存者の最年長であり、もう一人の副婦長であった女性に会うことができました。彼女は「私は、あの時死んだ方がよかったのだと今でも思っています」と言い、52歳になっても、手首の記憶から断ち切れないでいました。彼女の看護婦の経験年数なら、確実に死を受け入れる知識を持っていたはずで、それを成し遂げれなかった自分を恥じ、激しい自責の念に苦しんで生きているのでした。

 その年の8月15日、「白い手首の傷跡」と題するドキュメンタリー番組が放送されました。その中で「山桜の歌」を歌った元看護婦が映し出され、幼い男の子の母になっている彼女は、目から涙をあふれさせ、しばしば絶句するのでした。次のシーンはうつろな表情の元副婦長の姿でした。この番組により、生存者および遺族から慰霊祭の話が持ち上がり、17日の命日に札幌の護国神社でおこなうことになりました。金子の書いた記事によって生存者17人中14人の消息がわかり、12人が出席することになりました。

 慰霊祭当日、金子はこの取材を若い記者に行かせました。そして帰ってきた若い記者に様子を尋ねると「取材なんてもんじゃないですよ。抱き合って泣いてばかりいるんですから。。。もうあんな取材は二度とごめんだ」と乱暴に言い、涙ぐんだ顔を見られたくないのか部屋を出て行きました。戻ってきた記者に金子はもう一つ聞きます。それは一番最初に取材して断られた看護婦のことでした。記者は「来ていましたがね、感想をたずねても黙っていましたよ」と、抑揚のない声で答えたのでした。

以上が短編小説『手首の記憶』のあらすじです。本当に当事者に会うのが辛い悲惨な話ですが、「ひめゆり部隊」など語り部により多くの方が知っている話と違い、当事者が胸に秘めたままこの事実が消え去るのは忍びないですね。これを読んでくれたあなたの心に残っていただけるといいのですが。

では、次回この小説の「事実調査」を報告いたします('◇')ゞ

#実話 #看護師 #読書 #吉村昭

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