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小説『逃亡』の実話調査1

改めて調査作品の紹介

吉村先生の小説「逃亡」は1971(昭和46)年8月に文藝春秋の月刊誌「文学界」で初出、翌9月に文藝春秋より刊行されました。文庫は1978(昭和53)年4月に刊行。ただし、上記写真は2010(平成22)年の新装版です。

「軍用飛行機をバラせ・・・・その男の言葉に若い整備兵は青ざめた。昭和19年、戦況の悪化にともない、切迫した空気の張りつめる霞ヶ浦海軍航空隊で、苛酷な日々を送る彼は、見知らぬ男の好意を受け入れたばかりに、航空機を爆破して脱走するという運命を背負う。戦争に圧し潰された人間の苦悩を描き切った傑作。」*文春文庫の紹介文からの引用

では、調査報告をいたします!

「逃亡」の後に刊行された本について

実は「逃亡」の続編というべき小説を吉村先生は書いています。

この「月下美人」は「逃亡」から10年を経た1980(昭和55)年5月に講談社の月刊誌「群像」で初出、1983(昭和58)年8月に講談社より刊行されました。(文庫は1990(平成2)年1月に刊行)

この小説では主人公が「吉村先生」になっており、元逃亡兵の名前が「望月幸司郎」から「菊川三郎」に変わっています。吉村先生が元逃亡兵と出会い、戦闘機の破壊、脱走、北海道への逃亡が、小説として出来上がる経緯が克明に描かれています。

そして、「菊川」が北海道逃亡時に軍隊の追及を逃れるために潜伏した「タコ部屋」の実態について、北海道の民衆研究家と共著で出版することも書かれています。

ん?ということはその本は「小説」ではないので、書いてあることが本当に「事実」であるということ?

でも、この「月下美人」には「菊川」が出版した本の題名が書かれていないので、本当にこの本が存在するのか?

それを探すべくネットで「タコ部屋」「北海道」「脱走兵」で検索すると・・・

が、ヒットしました!

雪の墓標 タコ部屋に潜入した脱走兵の告白」は1979(昭和54)年4月朝日新聞社から刊行。早速近くの図書館に置いてあるか、またネット検索したところ、ありました!

読んでみますと、この本は紛れもなく「逃亡」の主人公の告白本でした。

終戦から20数年間、戦闘機の爆破で脱走、北海道に渡りタコ部屋労働者になり残忍な制裁と苛酷な労働の中、親方の信頼を得て「棒頭」と呼ばれる監視側の立場になり、労務者に制裁を加え、逃走者を追った人生の闇を隠し続け、安定した公務員生活をしていたが、過去を知る未知の男によりマスコミや役所、そして吉村先生に知られることとなりました。

隠し続けることに耐え切れず、吉村先生に全てを告白したことで、気分が晴れ、久しぶりに熟睡したことから、進んで話をする「スイッチ」が入り、自分の過去を確かめに霞ヶ浦海軍航空隊跡や北海道を駆け巡り始めました。

余りにも「劇的」な話であるため、「事実を追求する」吉村先生が「作り話」と疑っているのではないか思い、調べたことや現地に行って思い出したことをその都度報告するようになりました。

その間に北海道の民衆研究家が、苛酷な労働を不当に強いられ死亡した労務者の記録した著書に感銘を受け、その研究家が証言者がいないことを嘆きながらタコ部屋の調査をしていることを知り、証言者として調査に協力するようになりました。

元逃亡兵は自分の記憶をもとに、民衆研究家と現地へでかけて検証し、関係者を探し出し、文献・資料を確かめたので、書かれている内容にフィクションはないとのことです。

さらに「雪の墓標」の刊行から9年後の1988(昭和63)年には元逃亡兵が一人で書いた「続・雪の墓標 元棒頭自らの調査と記録」が刊行され、これら全てのいきさつが整理されて書かれています。

では、これらの本をもとに実話調査します。

まずは吉村先生の作品の確認から

「逃亡」と「月下美人」の5つの相違点

1 氏名について:元逃亡兵の名前は「逃亡」では「望月幸司郎」ですが、「月下美人」では「菊川三郎」となっています。しかし、本当の名前はどちらでもありません。その後も吉村先生の随筆などで元逃亡兵について書かれていますが、「K」というイニシャルだけにしています。*「雪の墓標」の著者名を調べた私も本名を知っていますが、吉村先生の考えに沿って、実名は控えます。

2 職業について:「逃亡」では夫婦で「果物店」を営んでいるようですが、「月下美人」では「東京某市の公務員」となっています。*吉村先生と最初に会った頃は公務員になって10年目だったとのことです。

3 住居について:「逃亡」では「東京郊外の繁華な街の商店街」の「果物店」とのような設定になっていますが、「月下美人」では「(東京)郊外に向かう電車に乗り、さらに支線に乗りかえて、侘しい駅に降り」「公営団地内にある棟割の二階家型式になっている住居」となっています。

4 吉村先生に電話をした男について:「逃亡」では旧海軍の法務関係者と名乗る「U」としているが、「月下美人」では「Y」になっています。また、「逃亡」では「事件関係の書類を目にした」になっており、元逃亡兵はこの人物に会っていないことから、特定できないため、結局誰なのか不明です。

5 吉村先生がかけた元逃亡兵の電話先について:「逃亡」では「自宅」なのか「勤め先」なのかはっきりしませんが、「月下美人」では勤め先である「某市役所」になっています。

吉村先生は元逃亡兵とその家族がマスコミ等に特定されないように「逃亡」では「職業」や「住まい」などを変えていました。「月下美人」はこの「雪の墓標」が「事実」まま出版されたことに伴い、「逃亡」の虚構部分を修正しています。ただし、先ほども書いたとおり「氏名」だけは変えています。いかに本人が実名で本を出版し、戦後35年経っているとはいえ、すでに「ベストセラー作家」である自分の作品は多くの人に認知されることから「実名」は伏せたのではないかと推測します。

では、次に元逃亡兵が書いた2冊の本から

「雪の墓標 正」が語る軍隊のしごきの凄まじさ

そもそも「逃亡」で戦後世代の私たちが理解に苦しむのは「門限を破った程度でなぜ恐怖にかられるのか?」ではないでしょうか?

「すみません!遅刻しました!」と謝って済むものではないと想像できるますが、平手打ちの数発で、体が動かなくなるほどの「半殺し」まではしないのでは?だって動けなくなったら上官から注意を受けるのでは?と思いますよね。そんなに甘くない実態が、書かれているのです!

では、「雪の墓標」15-18ページの引用です。なお、元逃亡兵はイニシャル「K」と標記させていただきます。

 翌1941(昭和16)年9月1日、Kは横須賀第一海兵団第44分隊に入団した。そこでKが精神棒による初の制裁を受けたのは、入団してから一週間目であった。その日、教班長の天野一等整備兵曹は新兵全員に用紙を渡して、「入団からの感想を、無記名にするからありのままに書くように」といって提出させた。
 一時間ほどしてからだった。十人くらいが真ん中の通路に呼び出された。Kもその一人だった。整列した新兵の前に、教班長は棍棒を引きずって出てきた。
「貴様ら、あの感想文はいったいなんなんだ。口でいってもわからんようだから、今日は身体でおぼえさせてやる。K、おまえからだ」<中略>ぺっと両手につばをはきかけて、教班長はKが一歩前に出たうしろにまわった。「足を開き両手を上にあげろ、尻を突き出せ」<中略>Kの心に、恐怖とともに屈辱感が走った。その恐怖感も屈辱感も、棍棒の一撃が吹きとばした。ぐわーんという、骨の芯までを打ち砕くような一撃に、Kは気が遠くなりそうだった。空を切って振りおろされる棍棒は、柔らかい尻の肉に喰いこみ、血を散らした。Kの目から星がとび、頭はぼうーっとなり腰から下がしびれ切った。激痛が全身を走った。倒れるのをおさえるのがやっとだった。<中略>殴られたのは尻だけだったが、皮膚は裂け血が吹きだし、しばらくは腰をかけることもできなかった。
 あおざめた新兵が、次つぎに呼び出されて殴られるのを、まわりに立っている下士官たちが、笑いものにした。<中略>感想文に、「頭を殴られるとバカになるから、殴らないでくれ」と書いた新兵がいた。教班長はこの兵を最後に残し、「バカになるかならないか、実際にやって見よう」といいながら、棍棒で殴った。頭なので、全力ではなかったが、それでも血が吹き出し、新兵は血だらけになって泣きわめいた。教班長は、「泣け泣けっ、泣いているうちは止めないぞ」といって殴った。泣き声が出なくなるまで殴られ倒れた新兵を、教班長は、肩で大きく呼吸しながら嗜虐的な笑みを浮かべて見おろしていた。
 無記名なのに、だれが何を書いたか教班長がわかったからくりを、Kたちはあとで知った。感想用紙に使った紙は、前任の兵隊が答案用紙として一度使ったもので、この用紙を渡すとき、Aが使った回答用紙はKにというふうに、教班長は記録しておいたのである。制裁のあと、先任教員の一等整備兵曹がやってきて注意した。「貴様らは、きょう初めて精神棒によって海軍魂を注入された。しかしほんとうの精神棒というのはあんないとのように細いものではない。もっと太いもんだ。

尻や頭が血だらけになっても「今回はまだ優しい方だ」というなら、本当の「精神棒」とはいったいどんなものなのだろうか?

ネットで調べると次のようなサイトがありましたので、見てください。あんな太く硬そうな棒で力を込めて殴られたら「骨は折れ、血が吹き出す」のは当然で、死んでしまいますよね!

また、20ページには次の通り悲惨な事実が書かれています。

 1943(昭和18)年から、弱い体の第二乙種の兵隊が霞ヶ浦にも入ってきた。この中から私的制裁による怪我人や自殺者が続出した。ある映画会社の助監督は、制裁を恐れる余り短剣を首に刺して自殺した。骨をやられて海軍病院に入院した補充兵が、腰の骨折だとわかったとき、私的制裁絶対禁止の通達がされたが、それでも制裁はなくならなかった。

 この様な状況で「女性宅に行って門限に間に合わなかった」などとわかったら、「血だらけになって失神している自分の姿」を想像せずにはいられない。なんとしてでも、時間に間に合うために必死になるのは当然で、「トラックで送ってくれる」なら神様に助けられた思い、恩人の願いを叶えたいと思いますよね。

では、その恩人である「山田」は実在したのか?

恩人山田は俳優「三國連太郎」似のカッコイイ男

Kが最終列車に乗り遅れ、制裁の恐怖に震えているところに一台のトラックが近づき運転手が「どこへ行くんだ」と声をかけてきた。Kが「霞ヶ浦の海軍航空隊です」というと運転手は「そりゃあよかった。石岡までの帰りの車だから、乗っていけ」といった。(東京から石岡に向かう途中に霞ヶ浦がある)

絶望の淵にいたKにしてみれば、まさに「神様仏様」に出会った気持ちだったとのこと。終戦後に映画で見た俳優の「三國連太郎」によく似ていたということですが、私たちが知る三國さんは「釣りバカ日誌のスーさん」の老紳士イメージですよね。では、70年ほど前の若き日の三國さんはどんな感じかな?と想像すると、私は息子である「佐藤浩市」さん(今59歳!)を若くしたようなのでは・・・と想像するより、三國さんの写真をネットで見ると

「佐藤浩市」さんよりも「要潤」さんではないですか!どっちにしてもカッコいいですね。

さて、この要潤似の山田がKに「パラシュートを貸してほしい」と言ったことから、「戦闘機破壊」については次回報告いたしますm(__)m

#読書 #読書感想 #吉村昭 #実話







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