見出し画像

自家製“養成ギプス”で猛特訓…「この痛みを乗り越えれば大リーグボールが放れる」日ハム一筋の名遊撃手・広瀬哲朗の劇的野球人生(前編)【長谷川晶一『プロ野球アウトロー列伝 異端の男たち』】

1985年ドラフト会議で1位指名を受け日本ハムファイターズ入団。その守備力とガッツ溢れるプレースタイル、明るいキャラクターで活躍した広瀬哲朗。意外な交友関係、デビュー前の秘話を、絶賛発売中『プロ野球アウトロー列伝 異端の男たち』(長谷川晶一著)より一部抜粋して公開します。

後輩・久保田利伸とのCM共演

「オレの地元は静岡県の蒲原っていうところなんだよ。今は合併して静岡市清水区になったのかな? 当時は小学校が二つあって、オレが東小学校で、2歳下のトシノブが西小学校。で、卒業して同じ中学になったんだよね……」
「親分」こと大沢啓二監督時代の日本ハムファイターズで活躍し、ガッツあふれるヘッドスライディングが印象的だった広瀬哲朗が雄弁にしゃべっている。
 彼の言う「トシノブ」とは、ミュージシャンの久保田利伸のことである。プロ野球選手とミュージシャン。意外な交友関係だ。
「オレの実家も利伸の家も、どっちも八百屋だったんで、家族ぐるみのつながりがあってさ。中学ではオレがピッチャーで利伸がキャッチャー。でもアイツ、身体は小さかったし、あんまり上手くなかったけどな(笑)。その代わり、当時から歌は抜群に上手だった。雨が降ったときに、上級生が下級生に〝何か余興でもやれ!〟って命じるんだけど、利伸はギターを持ってきて、当時流行っていた『神田川』とか歌うんだ。これが本当に上手だったんだよね」
 現役引退後に発売された広瀬の著書『ふっざけんな! やる気しだいで人生なんとでもなる』(竹書房)にはこんな記述がある。

 中学時代に記憶に残る野球の思い出はたいしてないのだが、男広瀬にはこの時代忘れられない女性関係の思い出がある。二人の女の子にからんで登場してくる二歳下の男が、その後ニューヨークに住むロックシンガーとなる久保田利伸なのだ。あのころは、当然だけど、ニューヨークなんてイメージはまるでなかったなぁ。
 俺の父はサラリーマンだが、祖父の代まで広瀬の家は蒲原で八百屋、久保田利伸の家も同じ八百屋だった。そういう関係で広瀬家と久保田家は子どものころから家族ぐるみでつき合いがあった。


 改めて、「忘れられない女性関係の思い出」を本人が振り返る。
「中3のとき、陸上部にかわいい1年生の女の子がいてさ。そのコが利伸と同じクラスだったんで、〝頼むわ〟って言って、アイツをパシリにして交換日記を始めたんだよ。汚い字で毎日書いて、それを利伸に渡してチアキちゃんに持ってってもらってさ。それがオレの初恋の人だよ、チアキちゃん。淡い思い出だよな(笑)」
 ハイテンションのべらんめえ口調が心地いい。「利伸エピソード」はまだまだ続く。
「日本ハム時代、本社の営業部長だった人がオレのところに来て、〝久保田利伸さんをうちのCMに起用したい〟って言うんだよ。でも、その頃にはもう疎遠になっていたから断ったんだけど、〝そこを何とか〟って言うから、一応、事務所を通じて打診したら、〝広瀬さんと一緒だったら出てもいい〟って言うんだよ(笑)」
 こうして実現したのが、日本ハムの『チキチキボーン』でのCM共演である。現在でもYouTubeで、若き日の二人の姿を確認することができる。
「あのとき、オレはギャラ出たのかな? よく覚えてないけど、利伸は1億円ぐらいもらったんじゃない? 世間はダルビッシュ有くんとか、大谷翔平くんのことを日本ハムのCMキャラクターだと思ってるかもしれないけど、バカヤロー、オレが日本ハムでは最初の全国区のCM起用なんだよ。で、驚いたのがさ、現役を引退して北海道中心に解説の仕事をしていたときの球団社長が、当時の営業部長だったんだよな。あのときちゃんとつき合っていたらオレも今頃、監督になっていたかもしれないのにな(笑)」
 広瀬の話はとにかく面白かった。ちなみに、その球団社長こそ、ドラフト会議において中田翔や斎藤佑樹を引き当てて有名になった強運の持ち主の藤井純一である。

ひろせ・てつろう …1961年1月23日静岡県蒲原町生まれ。県立富士宮北高校から駒澤大学、本田技研工業を経て85年ドラフト1位で日本ハム入団。93、94年には遊撃手として2年連続ベストナイン、ゴールデングラブ賞受賞。98年引退後は解説者やタレント、野球日本女子代表監督を務めるなど多方面で活動中。

自家製「大リーグボール養成ギプス」

 前述したように、静岡県内の八百屋の息子として生まれた。当時の少年たちがそうであったように、哲朗少年もまた、『巨人の星』に感化されて野球好きに育っていた。
 しかし、周りの野球少年とは異なり、その情熱、本気度はケタ違いだった。
「オレ、小学生の頃に実際に《大リーグボール養成ギプス》を作ったことがあるんだよ。エキスパンダーって知ってる? バネを伸ばして筋肉を鍛える道具。あれを分解して、バネとバネを留める金具を買ってさ。でも、全然ダメだったな。肉を挟んで痛くて、痛くてさ。でも、〝この痛みを乗り越えれば大リーグボールが放れる〟って思ってた。実際にそれを装着して学校にも行ったよ。ギイギイギイギイ、ただうるさいだけで、隣の席の女の子が〝何の音?〟って言うから、〝秘密だよ〟ってごまかしたりしてさ(笑)」
 この日、体育の授業があったことを広瀬少年はすっかり忘れていた。
「体操服に着替えなくちゃいけないんだけど、こんなの見られたらみんなに笑われちゃうから、〝お腹が痛いから今日は休みます〟って言ったのに、先生が〝お前は給食と体育のときだけが元気なのに、一体、どうしたんだ?〟って大ごとになっちゃって、結局脱がされて、それでみんなに大笑いされたんだよな」
 県立富士宮北高校を経て、駒澤大学に進学した。入れ替わりで卒業した石毛宏典の後を受け、1年時からショートのレギュラーとなった。
「本当は東京六大学に進みたかったんだよね。だから、六大学のレコードを買って、東大以外の校歌を全部覚えたんだけど、当時の駒澤の監督だった太田誠さんが静岡出身で、たまたまオレのことを知っていて熱心に誘われたんだよ。入学するときに石毛さんと一緒に練習したら、〝オレの後釜はお前しかいない〟って石毛さんからも言われて、そうなったら断れないじゃない。それで駒澤に行くことになったんだよね」
 前述したように1年時からレギュラーとなった。それでも広瀬の言葉は重い。
「この頃のオレはセンスだけでプレーしていたよね。決して技術があったわけでもないし、努力をしたわけでもない。後で詳しく話すけど、プロでやっていくにはそれじゃあダメなんだよね。決して一流選手にはなれない」
 大学卒業時にはヤクルトスワローズからドラフト4位指名されたものの拒否。社会人の本田技研でプレーする道を選んだ。本田技研時代には日本選手権大会で優勝。日本代表入りも果たした。満を持して、1985(昭和60)年、広瀬はドラフト1位でファイターズに入団する。

『プロ野球アウトロー列伝 異端の男たち』刊行記念イベント開催決定!

著者・長谷川晶一と、ゲストには本書に登場する広瀬哲朗、愛甲猛両氏をお招きして「80年代パ・リーグ」のすべてをノータブーで語り合う!
8月5日(月)、ロフト9にて19時開演。詳細は以下リンクよりご確認ください!

<著者プロフィール>
長谷川晶一(はせがわ・しょういち)

1970年5 月13日生まれ。早稲田大学商学部卒業。出版社勤務を経て、2003年にノンフィクションライターに。『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』(白夜書房)、『プロ野球12球団ファンクラブ全部に10年間入会してみた!』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武vs野村・ヤクルトの2年間 完全版』(双葉文庫)ほか著書多数。


ここから先は

0字
出血大サービスのオススメプラン!毎月30本近く更新される有料記事(計3000円以上)がこの値段で読めちゃいます。めちゃくちゃオトク!

「実話ナックルズ」本誌と同じ価格の月額690円で、noteの限定有料記事、過去20年分の雑誌アーカイブの中から評価の高い記事など、オトクに…