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ロープ

柳さんと見た!

1948年の映画。こんなに古い映画は今まで見たことがない。
サスペンスの巨匠ヒッチコックの作品で、ヒッチコック初のカラー映画らしい。そんな時代の映画なんだ……
ところどころで画面にフィルムのノイズが入ってくるのがかなり新鮮だった。
初ヒッチコック作品だ。

この作品だけにいえることなのか、これくらいの時代の映画全てに共通することなのかは定かじゃないけど、登場人物の距離感がかなり近かったように思えた。
これって映像の横幅があまり広くないが故に、寄らないと顔がセンターあたりに映らないからかなと思ったけど邪推だろうか。

まだ絶賛スリル・ミー(下記感想文参照 登場人物2名、とピアノ、ピアニストというシンプルな構成からなるミュージカル作品)

に心がとらわれているので、スリル・ミーと同じ「レオポルドとローブ事件」を取り扱っているこの映画を見ることにした。

筆者はスリル・ミーから心が帰ってこられない状況が続いているので、この感想文もスリル・ミーを念頭におきながら書いている。

この映画、何がすごいって80分くらいの映画なんだけどその間全てワンシーンで繋げていること。
普通ならここでカットが入るというところでもカットが入らず、カメラが登場人物たちを追い続ける。
Wikipediaによると「当時の撮影用のフィルムは10 - 15分が限界なので、実際には背中や蓋を大写しにするワンカットを入れることで全体がつながっているように演出している。」らしい。違和感がなくて驚く。

冒頭からものすごいマンションの最上階にいてでびっくりした。
壁がガラス張りで街並みが一望できるというか……あの部屋どうやって説明すれば良いんだろう?
とにかく明るい光が入ってきて、見晴らしが良い部屋。ここってフィリップの部屋なのかな。
そこでフィリップとブランドンがデイヴィッドをロープで絞め殺し、チェストの中に入れるシーンからこの作品は始まる。

実際の事件は16歳の少年を誘拐したあと撲殺し、塩酸で顔や性器を焼いて排水溝に死体を隠しているのでこの時点でかなり違う。
実際の事件はエッセンス程度に取り入れられている。

その後二人はこの部屋でパーティをするために準備をする。
ブランドンはよりスリルを味わうために死体を入れたチェストの上にテーブルクロスを敷き、燭台をのせ、食事を置く。
デイヴィッドの父、叔母、彼女、(元)親友、大学時代の先生を招き、パーティが始まる。

この映画のすごいところは、ブランドンが殺しの匂わせをゲストの人々にしつつも、まさかデイヴィッドが殺されているなんて思わないゲストたちはデイヴィッドがパーティに来ないことを訝しみながら最後までパーティが進行していき、一旦は無事に終了してしまうこと。
でもそのブランドンの殺し匂わせがかなり最悪。
フィリップはおそらく自主的に殺したいと思って殺したわけではないらしく、その匂わせで殺しや死体がバレるんじゃないかと思って冷や汗をかきながら落ち着きが無くなり、どんどん神経質になって激情しやすくなっていく。

この時点でブランドンは殺しのパートナーの性格を把握することを怠ったな……と感じる。
そもそも殺しのパートナー選びからミスっていたかも。
こんなに神経質で分かりやすい男をパートナーにするべきではなかった。
ブランドン一人だけだったらもしかしたらこのパーティは本当につつがなく終了していたんじゃないかな。
凶器であるロープを手元から無くすまでの過程も見事だった。イカれている!と思うけど、確かに本をまとめるために使ってデイヴィッドの父に渡しまえば証拠は手元に残らない。

フィリップは人を殺したことに対してワクワク感よりも、もし人に見つかったらどうしようという不安や恐怖が強く出やすい性質だったのが全ての間違い。

ブランドンは大学時代に先生であるルパート(哲学者?)とよく会話で交わした「優れた少数派の人は善悪を超越する」いう思想に傾倒しており「劣っている人間は生きる価値がない」と思っている。
なのでニーチェの名前は一応出てくるけど、ブランドンはニーチェの超人思想を信仰しているというよりはルパートに傾倒しているという印象を抱いた。
そしてフィリップにはそういう思想が一切なかったからすれ違ってしまったんじゃないかな。

今作ではブランドンとフィリップは悪友という感じだった。二人は距離が近かったけど、恋人的なムードは一切感じなかった。
あえて排除したんだろうな。

ブランドンは特に計画があるわけではなく、とにかくデイヴィッドを殺そう!死体をチェスとにかくそう!その上で食事をしよう!誰にも気付かせないぞ!という気持ちだけで動いてるいるので、もしパーティが無事に終わっていたとしたら、パーティ後の死体の移動や処理はどうしていたんだろう……
都会に住んでいるっぽかったし、どこに隠すつもりだったんだ。
とにかくルパートを出し抜くことが目的だったように思える。

ルパートはこの映画で探偵役なんだけど、元を辿ればルパートの「優れた少数派の人は善悪を超越する」という思想のせいでブランドンは殺しを決意しているので、かなり罪深い男でもある。
ルパートもルパートで、青年たちが何かやったであろうことに早い段階で勘付いて、気が動転しているフィリップにカマをかけて真実に辿り着いているんだけど、もしかしてデイヴィッドがいないのって殺したからか?と思ったのってブランドンならやりかねないと思っていたからなのか。

この映画の9割は朗らかに進んでいくパーティの中でブランドンがする殺し匂わせとゲストたちの言動にヒヤヒヤし続けるというだけの構成なんだけど、それでも目が離せないから凄い。
パーティが終わってからルパートがまた部屋にやって来て謎を解くくだりって時間でいえばおそらく全然ない。

この謎解きの時もブランドンはルパートに自分がなぜ殺しをしたかわかってもらおうとして君ならわかるだろ!?って説明をするんだけど、その時になって突然ルパートは「人は平等だ!殺して良い人なんて存在しない!」と言い出すのでブランドンにとっては急に手のひらを返されたような印象を受けるだろうなと思った。
ルパート的にはおそらく人間には格差があるって話をずっとしてきた上で、自分は優れた少数派じゃなくて、劣った人間であり、その優れた少数派から受ける理不尽みたいな話をしたかったんだろうけど、ブランドンは自分は優れた少数派の人間なので善悪を超越して人を殺しても良いと曲解してしまったのかな、と感じたんだけど、実際のところはどうなんだろうね。

ルパートの方がブランドンとフィリップよりも何枚も上手だし、勝てっこないのが言動からわかるのでまぁそりゃブランドンとフィリップの計画は破綻して警察に通報されてしまいますわな!と思いながら終盤の方は見ていた。

サクッと見られるくらいの長さだけど、しっかり面白い良い作品だった!
スリル・ミーがなかったら一生見る機会がなかったので見られてよかった。
今度は「サイコ」が見てみたいな。

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