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行き先

掌編小説

 最近どうも奥歯がぐらつくような気がする。隣県の歯医者へ定期健診にゆくためにバスターミナルに降り立ち駅へ向かおうとしている時だった。「あのう、」そう声をかけられて目を合わせてしまった。
 ここは人通りが多い。平日の昼間なんかにぼんやりしているとキャッチセールスや宗教の勧誘で声を掛けられる。それで立ち止まってしまったら最後、決まって苛立ちながらも断ち切る時を逸してしまい、ぐずぐずと話を聞いてしまうのが常であった。そのため、普段であれば避けるのだが、こうして鉄道に乗って隣県へ行くためには通らざるを得ないのである。
 また何かの勧誘かと思うより先に、声を掛けられたことで反射的に足を止めてしまった。幸か不幸か特急の発車時刻までには余裕があった。私に声を掛けたのは小さな腰を丸めた老婆だった。
「財布を忘れてしまってねぇ、家に帰るバス賃がないんだけど、貸してもらえないかね」
ぎょっとして、目の前の老婆をまじまじと見返した。重く垂れさがる瞼の奥で白目が黄ばんでいた。その姿を観て、私は僅かばかり背筋を伸ばした。丁度50メートルばかり先にバスの案内所がある。そこへ相談するのが良かろうと話した。すると老婆は疲れてそこまで歩けないと言い放つ。私は時間潰しにでもなるだろうと、よくよく話を聞いてみることにした。家を出る時は娘に車で送ってもらったそうで、この近くの整形外科へ行ってきたという。そして、今になって財布を忘れたことに気が付き途方に暮れていたらしい。おかしな話である。
「じゃあ、娘さんに電話をかけて迎えに来てもらってはいかがですか」
呆れながらそう言ったものの、もし、そうすると言われたらどうしようかという思いが脳裡をよぎった。公衆電話までは遠いため、自分のスマホを使わせることになるだろうが、それがためらわれた。プライバシー云々の問題以前にこの老婆はスマホを使うことができないだろう。代わりに老婆から電話番号を聞いて私がかけることになるだろうが、このスマホは店員に勧められて買い替えたばかりでまだ慣れていない。いや、そもそも番号を押すための物理的なボタンが無く操作がしにくいためにスマホ自体が好きではないのだ。以前スマホを触っていたら、どういうわけか110番へかかっていて恥をかいた。
「電話番号は分からんのよ」
老婆のその返事を聞き、ほっと胸をなでおろした。
家はどこかと尋ねれば、宮野台で560円と言う。その時、後方でバスが停まる音がして、数人が降りてきた。それに紛れて私は「電車に遅れるので、これで」と呟き、立ち去ろうとした。そうして、駅の方へ顔を向けた時、中年の女が慌てたようにこちらへ走ってくるのが目に入った。瞬間、足元がぐらつくような気がした――。

<了>

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