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裏口の蝉

掌編小説

 裏口は暗くじめじめしていた。いつも家の陰になっていて、ちょっと足を踏み入れると、ぐにゅぐにゅとしたイシクラゲの感覚が靴越しに伝わってきた。その暗い裏口には小さな金木犀の木があり、その横にタイル張りの水受けを備えた水栓柱があった。祖母が生ける前の切り花を水に浸けておくために、水受けの中には一斗缶が置かれていた。
 玄関は狭く、小さな妹が靴を履くのにまごついていると、待ちきれず自分の靴を攫って、台所を通って裏口から外へ飛び出す。丁度学校に行く前のことだった。セミの幼虫が前足の先を一斗缶の端に引っ掛けて羽化をしようとしていた。小さな黒い瞳をぴょこんと出して、ゆっくりと狭い殻から薄緑色の腹を引き出そうとしていた。学校へ行こうとしていたことも忘れて見入っていると、いつの間にか玄関で靴を履いていたはずの妹も駆けつけてじっと覗いていた。見かねた父が「バスが来るぞ」と急かす。文句を言いながら子供たちは坂道を駆け下りていった。帰ってくる頃には黒々としたセミが裏口で大きな声を鳴かせているに違いないと信じて。

<了>

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