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家のこと

私のことを書いてみようと思います。

私は幼稚園時代、小学校、中学校、高校、を大阪で過ごしました。

田舎ではあったのですが、もう40年前なので、まだバブルも少し名残りがありました。

父は印刷業をしていて、帰って来ると自宅前の工場にリフトを運転したりして物を運んだり、忙しい感じでした。

父が工場から帰ってきて手を洗い、食事をする。一般家庭のようで、少し裕福で贅沢な家庭でもありました。

子どもにとっては、その場が危険に感じることがありました。
嫁である母親、姑のちょっとした意地悪のケンカを垣間見たり、
それよりも父と祖父の激しい口喧嘩バトルが茶の間に持ち込まれて、時々ヒートアップすると、机のものがなげられたり、冷蔵庫に椅子が投げられたり、物が投げられたりするので、子どもの私ははその場を退散することになりました。

2階にもリビングルームがあり、そっちに避難して行った気がします。

あと楽しかったのは、お風呂は祖母と入ったり、一緒に寝たりしたこと。夜のトイレには必ず一緒に行くことをしてくれました。
もちもちの木に出てくるほどではないけど、
大きい家のトイレは、下駄を履いていく、とっても、怖いトイレだったのです。

家には暖かい家庭のイメージがありました。

その一方で、大人の喧嘩は怖いなーと思って怯えた日がありました。

祖父の背中に乗って、お風呂上がりにお馬さんごっこをしたのもハッキリと覚えています。
あと、Tシャツがよれっとしていた、いつも言葉数は少ないけど、倹約家で、古くなった下着もあんまり買い替えない人でした。

そんな祖父にもいつも大きい買い物はおねだりしていました。

祖父ともっと話したかったな、祖母とは小学校のときは、帰ってから喫茶店に行くときは、ミックスジュースをもらえる、そんな贅沢な放課後を過ごした日が今にも目に浮かびます。

母による祖母の影愚痴は聞くけど、私は祖母の愛情をたっぷり受けて育ちました。

母と私の関係も悪いわけではなく、どちらかというと過保護で育ちました。この服を着た方がと言って、ほぼ服は選ぶ権利はなく、母が決めて買ってきたものを着ていました。

今考えると、母と、祖母の間に立っていた私は、母を喜ばせたい、母の思う通りにしておかないとまたイライラして、怒ってしまうと我慢していたのだと思います。喧嘩はしてほしくないと思っていたのだと思います。

そんな私は学校でも友だちの前でも自分の意見を言えない子でした。自分で自分の気持ちを押さえ込んでいた気もします。あと、表現したくてもうまく言葉にならないという感じの子どもでした。

たった一人幼稚園からの近所の友だちAちゃんと2人でいつも、遊んでました。

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