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世界的ピアニストはリハーサルにも賭ける 古畑任三郎 VS. 中村紘子

〇古畑任三郎 第1シリーズ第6話から

 仕事から帰って居間で休んでいたら、テレビに田村正和の姿が映っている。「古畑任三郎」の再放送である。犯人役は木の実ナナ。見覚えのあるストーリーだ。木の実演じる世界的ピアニストが、師であり、そして愛人でもあった世界的作曲家の追悼コンサートに出演したいがために、予定されていた演奏者を心臓麻痺にみせかけて殺害する。田村演じる警部補:古畑任三郎は、ちょっとした違和感を手がかりにこれを徹底的に追求していくのだ。

 クラシックの音楽家が登場するドラマに、専門家からみれば荒唐無稽ともとれる描写が登場するのは良くあることで、残念ながらこの作品も例外ではない。もちろん、「古畑任三郎」の魅力といえば、まずは、脚本家の三谷幸喜がゲスト出演者の個性に合わせて造形する犯人や、主人公:古畑任三郎のキャラクターにあることは疑いなく、とりわけ、出来すぎた二枚目であるためか、どこか決定的に現実から浮いてしまう田村正和に、この役は絶妙にハマっている。このキャラクターを前提として展開されるやり取りこそが、作品の肝と考えるならば、ミステリーとしての脇の甘さや、設定のリアリティについて、あまりに細かいことを指摘するのは野暮かも知れない。

 ただ、実際に演奏会を制作したりなどして、演奏会の幕が開くまでの様々な裏方の苦労を知っている身としては、一言注釈を付けておきたくなるのも人情というもの。同じ思いであったのか、ピアニストの中村紘子もまた、この回のリアリティについて、日本経済新聞紙上で連載していたエッセイにて、苦言を呈していたことを思い出す。このエッセイは、「どこか古典派」(中央公論社)という単行本に収録されているので、現在でも手軽に読むことが出来る。

 中村の指摘は、1)、コンサート用グランドピアノの一番低いD音の弦が切れることは、まず考えられない。2)どうみても演奏の邪魔になりそうな服を、リハーサルの段階でも着ている。3)追悼演奏した「名曲」が、あまりにも陳腐な作品である。の三点に集約される。だが、中村は、ミステリーのネタバレをしないという倫理を大切にしたためか、このエピソードにおけるもっとも重大な違和について指摘していない。それは、木の実演じるピアニストが本番までステージのピアノに一切触らないという点にあるのだ。

〇ピアニストがリハーサルで行わなくてはならないこと

 ピアノという楽器はあまりに大きく重く、容易に運搬することは出来ない。もちろん、世界の超一流のピアニストの中には、世界のどこで演奏する際でも、専門業者に自分の楽器を運ばせる人もある。ただ、そうした運搬は厳密な温度/湿度管理の下で行う必要があり、実行には膨大な経費を計上せねばならない。よって、A.B.ミケランジェリのような、高額のチケットが黙っていても完売するような、伝説的なピアニストのみがそうした待遇を手に入れることができる。

 すると、ピアニストは演奏会場のホールに付属するピアノや、会場周辺の業者が持つピアノを弾くことになるわけであるが、ピアノというものは、工業製品ではあるものの大部分が木で作られているがゆえに、同じ型番をもつ製品でも、完全に同じ状態であることは、まず、ない。さらには管理の良し悪しといった要素もそこに絡んできて、「某ホールのスタンウェイ(社製のピアノ)の酷い保管状態」といったことが、しばしばピアニストの話題となるわけである。こうした事情ゆえに、一流のピアニストならば本番が始まるその時まで会場のピアノに触れないということは、よほど差し迫った事情でもない限り考えられない。ここぞという演奏会で良いピアノと出会えるか否か、というのは、自身の楽器を持ち歩くことを許されないピアニストにとって、一種の賭けなのだから。

 ならば、しばしば演奏を行っている良く知った会場のピアノならば、事前に触れずとも弾けるのではないか?「古畑任三郎」のこの回では、木の実ナナ演じるピアニストは会場となった音楽学校の理事でもある、という設定だ。よって、会場のピアノを弾く機会は当然過去にもあったので、その性質は知悉していたはず(劇中にも、「あのピアノの弦はよく切れるからチェックを怠らないように」というセリフがある)。だから触らずに済ませたのではないか?

 だが、それも実は間違いで、同じピアノが常に同じ状態にある、と考えるべきではない。ここで注目すべきが、演奏会の前にピアノを調整する調律師の存在である。調律師の仕事とは、決してピアノの音程を整えることのみではない。ピアニストの求めに応じて鍵盤のアクションなどについての調整を行うのも、大切な調律師の仕事の一つである。よって、そのときのピアニストの要求によって、ピアノの鍵盤の重さ一つとっても随分変わってくるのである。過去に一度演奏を行ったピアノであっても、自分の好みと異なった形で調整されているなら、そのピアノは随分と弾きにくいものとなるだろう。

 こうした違いは、ピアニストを職業とするものならば気にならないわけがない。ゆえに、一流のピアニストならば、大抵は懇意にしている調律師があり、重要なコンサートのリハーサルには必ず調律師が立会い、演奏家の好みを考慮した上で、当日の細かな要求に沿って(演奏曲目の性質によっても、調律に対する要求は変化していく)ピアノを調整していくのである。

 そもそも、ピアノとは本体の大部分が木で出来た、工業製品というよりは生ものに近い存在である。経年変化もあるし、当日の天候、気温、湿度に応じて、その響きは驚くほどに変化する。そうした変化に対応し、ピアニストの要求に応じて適切な調整を行う大切な役割を調律師は担っている。それはあたかも、F1のピットクルーが、当日の天候、気温、路面の状況に応じて、マシンのセッティングを決定していくのにも似ている。ゆえに、直前まで演奏会場のピアノに全く触らずにいて、本番だけ会場のピアノを弾くということは、練習走行もせずにいきなり本番のサーキットに飛び出して行くような、命知らずの行為というほかない。

〇さらに音楽の深淵へ

 さらにいうなら、会場に置かれたピアノは、その前後の位置や、聴衆に対する角度を僅かにかえるだけでも相当にその響きを変化させる。人間は自分の声を客観的に聴くことが出来ないように(なぜなら、声を発生させる際の声帯の振動は、頭蓋の中で共鳴してしまい、それゆえに外から耳に入ってくる音と同様には知覚しえない、たとえば録音機で録音した自分の声というものは、大抵の場合、自分の声とはかなり異なったものとして知覚される)、ピアノの演奏においても、鍵盤の前で聴く自分の音と会場での音とは、随分違うものなのだ。

 よって、コンサートを行う前には、リハーサルを本番会場にて行い、信頼出来る第三者に客席に聴こえるピアノの響きをチェックしてもらう必要もある。もちろん、客席が観客でいっぱいになれば、その響きのバランスも当然変わってくるのだが、この変化よりも、ピアノの位置によって生じる変化の方が大きい。

 そうした経験を限りなく積み重ねることによって、自分の音を客観視することが出来るようになるというのが、一流への階段を上るということなのである。演奏においては、この自分の音/音楽を客観視していくことは、様々なレベルにおいて極めて重要な問題となってくる。この辺りを詳細に書き連ねて行くと、あっという間に本の1冊も書けるような分量となってしまうので、「それはまた別の話」ということで、今回はここで筆を置こうと思う。

 (この文章は、2009年に、情報サイト「そら飛ぶ庭」の音楽評論 欅の木の木漏れ日 第25回として執筆・公開されていたものです。)

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