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Prepárense 用意はいいか 鈴木治行の室内楽作品を聴く

用意はいいか。

もし、貴方がこの小文を演奏の最中にお読みなら、すぐにおやめなさい。それは、予備校の授業中に合格体験記を読みふけるような不毛な行為だ。もちろん、この小文にも、合格体験記にも、読む者に何かの気付きを齎す二三の記述が含まれていることだろう。そうあって欲しいと願っている。ただ、物事にはタイミングというものがある。今なすべきは、目の前の音楽にとにかく喰らいつくこと。それ以外にない。

鈴木治行の音楽を聴くことは、人の短期記憶を駆使させる、ある種のゲームに参加するのに似ている。ルールは簡単。だから、誰でも、予備知識がなくとも参加できるだろう。ただ、ゲームに参加しているという心構えと集中力は持っておきたい。

再度訊く。用意はいいか。

では、解説を始めよう。鈴木治行の音楽の際立った特徴はその時間構造にある。音楽が時系列に沿って音を並べていく芸術である以上、時間構造の重要性は本来自明のことのはずだ。しかしながら、近年の芸術音楽には、時間構造より音響そのものに重きを置く傾向がある。これは音楽史上稀有な「感覚の作曲家」であったドビュッシー以後顕著な傾向で、ドビュッシーを生んだ国フランスには、スペクトル楽派という科学的知見により音響を精緻に彫琢する流派も生まれた。無論、この技術そのものは素晴らしい。だが、かつて近藤譲が指摘したように、一つの音響の中には、これをどう発展させていくか、という論理は(基本的に)内包されていない。音響を時系列に沿って並べ、発展させるには、別の論理を用意しなくてはならないはずだが、そのことに無頓着な音楽を耳にする機会が些か増えた。音響が複雑になるにつれて、その論理を用意することも難しくなり、たとえ用意できても、それが容易に聴き手に共有されないジレンマに、作曲家たちは直面しているというのに。

よって、音響を本質と捉えない鈴木は、このジレンマから自由な数少ない作曲家の一人といえる。そのスタンスがどこから生じたのかといえば、それはやはり映画であったろう。映画を観るとき、たとえば、精緻に作られた音楽よりも、劇中の何気ない子供の鼻歌が印象に残り、かつ、映画の雰囲気もまた後者によって形づくられる、といったことがしばしばある。音響の彫琢より素材を際立たせるコンセプトの大切さ。ミシェル・シオン以後の映画音楽家であり、リュック・フェラーリに私淑する鈴木が、このことを見逃すはずはない。もちろん、鈴木も作曲家である以上、音響の彫琢とは無縁ではありえない。だが、音楽も映画も、否応なく流れていく時間の上に構築される芸術であることを考えれば、聴き手/観客の記憶能力を無視して成立し得るはずはない。

ただし、一般的な映画の場合、劇中で展開するストーリーがその持続を担保してくれるが、音楽、とりわけ、本日演奏されるような室内楽作品は、オペラや劇音楽のように特定の筋書きに沿うことがなく、より抽象的で記憶しにくい。この抽象化した音楽を読み解くために、過去の音楽においては形式が機能した。たとえば、ソナタ形式という用語を、単一楽章の構成法として使ったのは、1824年のアドルフ・ベルンハルト・マルクスが嚆矢という。つまり、モーツァルトにもベートーヴェンにも、「ソナタ形式の楽曲を書く」という特段の意識がないまま、当時の作曲界で共有されていた、いわば定石に従う形で、その創作活動を続けていたことに注視されたい。この定石が聴き手の中でも共有されていたならば、聴き手は、あらかじめ大まかな筋書きを知っているのと同じで、これが第一主題、これが第二主題・・・、と、適宜メモリーに刻んでいけば良く、一回聴いただけで一曲を丸ごと記憶してしまう、モーツァルトのような能力がなくとも、未知の音楽を咀嚼することができるだろう。

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こういうことかもしれない(ITCHY FEET氏 twitterより)。

しかし、形式とは、そうした有用さの反面、使い古されていく中で陳腐化してしまうものでもある。また、古典派の時代から音楽の内実が変われば、当時の形式をそのまま利用することは、そもそも難しい。音楽語法が多様化/複雑化した結果、現代の音楽においては、聴く者の共通認識とまでなっている形式上の定石は存在しない。そこに現代の芸術音楽の難しさはある。作曲家がいかに楽曲の時間構造に工夫を凝らそうとも、聴き手の認識に引っかからず素通りされてしまう可能性もまた、常について回るのだ。

よってここで「記憶」が再度クローズアップされる。不完全であるがそれゆえに面白く、時には認識上のエラーも引き起こす聴き手の記憶と、いかに対峙していくか。音楽作品の時間構造の問題とは、究極、聴き手の認知や記憶との関係性の問題なのだ。

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鈴木治行にとっての音楽の時間構造とは、この聴き手の記憶と対峙した結果生み出されるものだ。作曲家の意図が聴き手の認識に確と刻み込まれる仕掛けを含んだ、音楽形式の工夫と言い換えても良い。そのために鈴木が用意する素材はとにかく様々だ。いかにも現代音楽風の不協和な響き、ゆるやかな疑似反復音型、昭和のポップミュージックを思わす断片、鋭い電子音、既存の楽曲の引用、映画のサウンドトラック(いわゆるサントラ盤ではなく、文字通りのサウンドトラック:映画に付随するセリフや効果音を含めた音声のこと)のような音たち……。

聴き手に求められているのは、鈴木が次々に繰り出す素材をメモリーに刻み込みつつ、それら相互の関係についておぼろげながらにも思考すること。なにも構える必要はない。ゲームに参加するようにリラックスして楽しめばいい。鈴木は、ある時は正攻法で、ある時は思いもしない奇手により、聴き手の認識を操作していく。それこそが、鈴木の仕掛けた時間構造の狙いであり、その独自性に他ならない。どうか存分に、集中し、記憶し、思考し、味わい、そして騙されて頂きたい。

最後に訊く。用意はいいか。

それでは音楽を始めよう。

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