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自意識の再発見

武田砂鉄さんの『べつに怒ってない』というエッセイ集がおもしろい。

・向こうから知り合いっぽい人が歩いてきたときに声をかけるタイミング
・「寝てない自慢」をする人にどう対処するか
・なぜこんなにも科学技術が発展しているのに「まわりが濡れないコップ」がメジャーにならないのか?

といったような、とても些細かつ「そうきたか」と思わせてくる着眼点。そのなかに常識をくるっとひっくり返されるような、ハッとする瞬間があったりする。帯には著者のことを「考えすぎのプロ」と書いてある。納得せざるを得ない。微に入り細を穿つ日常への観察眼と思索。それらをユーモアで味付けして楽しく読めるようにしているのが、すごい。

思うに、自分が面白いと思う文章はけっこうな割合で「自意識」が発端になっていることが多い。世の大半の人が「いや、気にしすぎでしょ。」と一刀両断するようなキングオブ些細な出来事に対して、「そうは言っても気になるものは気になるんですよねえええ。」という言葉を唾と一緒に飲み込んだとき、「誰にも言えない自意識の塊」が自分の中で少しずつ大きくなっていく。

だから、その塊と同じ成分を持った人や文章に出会うと「おお!」となる。やっぱりそうですよね、そこ気になりますよね、と。

逆に、「ふだん言語化したりあえて意識したことがなかったけど、よく考えたら自分の中にもあった自意識」を掘り起こしてくれる文章に出会うと、「おお!」を通り越して「#じ%&!!」となる。
あるわ、これ!こういう時あるわ、これ!マジで!
と途端に語彙力を失った悲しきモンスターになる。

自分すら無視していた自分を、誰かに見つけてもらえると、嬉しい。

先の武田さんのエッセイのなかで、そんな「自分の自意識の再発見」的な経験をした。「コンビニに行く時の格好」というタイトルの節である。それは、「コンビニに行くような格好でどこでも出かけちゃうんです」と、どことなく自慢げに語る人たちへの違和感から始まる。

ふと思うのは、果たして「コンビニに行く時の格好」の平均値なんてものが存在するのだろうか、という疑問である。たとえば、ついさっき入ったコンビニを思い出してほしい。そこに「コンビニに行く時の格好」をしていた人はいただろうか。そこにいた全員がコンビニにいる以上、全員がコンビニに行く時の格好をしているわけだが、「コンビニに行く時の格好」として代表できる人はいないはず。

『べつに怒ってない』p.80より

もうこの疑問だけでじゅうぶん面白くてご飯3杯くらいはいけるのだけど、自分はこのエピソードから発展する形で、先述の「自意識の再発見」をしてしまった。

「そういえば、コンビニに行く時になにを着ていくか、毎回30秒くらい悩んでいる気がする。」

家にいるときの格好のままでいいのか。いやさすがにみすぼらしすぎる。
でもコンビニに行くためにわざわざ全部着替えていくのもなんだかなあ。
Tシャツがみすぼらしさの原因だから、上だけでも着替えていくか?
いや……。

みたいな心の動きで30秒くらい時間をロックされる。
毎日1回コンビニに行くとしたら、年3時間ちょっとの浪費。
効率主義、タイパ重視のこの世の中で、このような無為な時間に3時間も割くのは端的に行って愚かである。

ちなみに今住んでいる家から最寄りのコンビニは徒歩30秒。目と鼻の先である。悩む前に歩き出せばこの無為な時間はなくなる。もはや家の延長空間のコンビニに対してまで「何を着ていくか」で悩んでいる自意識に我ながら呆れ果てる。

ちなみに、結果的にいつも「家にいるときの格好+ちょっと上になにか羽織る」みたいな妥協案に落ち着くことが多い。いや、最初からスムーズにその結論に行けよ。
自意識というのは、よくわからなくて、はなはだ非合理的で、厄介でおもしろい。

すみませんこの文章にオチとか有意義な学びとかは特にないです。そういう回です。

けれど、「自分の中にあり続けていた自意識」に気づけた瞬間って、なんか興奮するよなあ、ということだけお伝えしておきたい。
自意識よ。今まで見つけてあげられなくてごめん。
どうか早く成仏してください。

「次世代の教科書」編集長 松田



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