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「渡なべ」〜マチルダは振り返らない。

マチルダは振り返らない。

在日フランス人のマチルダは高校生の頃、銀座で雑誌のカメラマンにスカウトされモデルを副業としていた。

本業は別にある。しかし地味だ。地味なため周囲には口にしていない。

マチルダは容姿はフランス人でもフランス語が話せなかった。幼い時から東京で暮らし、日本人の父は物心がついたときにはもはやいなかった。フランス人の母が一人で育ててくれた。

ハッキリしたパーツの顔立ちに東洋のエキゾチックな雰囲気を備えていため、中学の半ばあたりから兎に角モテた。

それは同時に鬱陶しくもあった。だからマチルダは誰かに呼ばれても返事をしないことに決めていた。先生に呼ばれても返事をしなかった。

誰もが、高飛車、血の通っていない女、振り返らない女だとか言うようになっていた。

それも一向に構わなかった。何故か勉学には困らなかったし、マチルダには母がいた。それで十分だった。

しかし、一度だけ、マチルダは近所に住む当時大学生だった男を好きになったことがあった。彼は普段鬱々としてやや暗い雰囲気だったが、たまに飯を食う時は、ギラギラと、野獣のような目つきに変わった。ある時なぜか一緒にくっついていったラーメン屋の味が忘れられない。

モデルには辛いことだが、気づけば、その時のラーメンの味を探しながら一膳飯を食べる時がマチルダの唯一の癒しになっていた。

その日マチルダは早稲田通りと明治通りの交差点から少し高田馬場側に戻り、北側の小道に入ったところにひっそりとあるあるラーメン屋、「渡なべ」に来た。

午後2時だというのに外待ちが3名。

茹だるような暑さ。顔をしかめるマチルダ。その顔は美しく、並んでいるオヤジたちは皆マチルダを一瞥した。

マチルダは頬をつたい顎に落ちていく汗の滴を細い手の甲で拭った。その仕草すら輝いてみえた。

「一番前の方、どうぞ」
と店員が店の外に向かって叫ぶ。

マチルダは店に入る。入口にある券売機で、限定ラーメンの大盛を押す。

「しまった、気がつけば大盛りに…これで暫く食べられなくなるぞ」
マチルダはため息をついた。

席に座ると厨房の大鍋から大量の湯気が立ち昇っていくのを眺めるマチルダ。

店員がチラチラとマチルダを盗み見る。マチルダは湯気を見つめる。死を思い詰めた少女さながらに。

「お待ちどうさまです」
と店員はマチルダの目の前にラーメンを置いた。

その野獣的なビジュアルにマチルダは呻く。

背脂が散りばめられたスープは醤油の黒のはずなのに、なぜか黄金色に輝いている。麺は中太ツルツル系、チャーシューは程よく歯応えがあるゴロゴロタイプ。

これはたまらない。

マチルダはひと呼吸置くと勢いよく麺を啜った。

店内にズルズルと麺を啜る音が響く。獣が捕食相手をひたすら貪るように勢い良く、艶やかに。

うまい…ビジュアルから濃厚そうな背脂のコクはキツすぎず上品。チャーシューは口に入れた瞬間に肉の筋繊維が緩くほどけて、濃厚な醤油味に溶け合う。

「由々しき事態だ…」
マチルダは独りごちた。

あの頃あいつは、うまいもんを食ったら必ずその後に言っていた。あの時意味はよくわからなかったが、今は何となくわかる。

子供のマチルダは、いつの間にかその口癖を真似してしまうようになっていた。それは憧憬というよりもむしろ発作に近かった。

引っ越して以来、あいつと会わなくなって10数年経つが、あのギラギラした狩人の表情を今だに思い出してしまう。

マチルダは首を振った。
あいつの顔を振り払うかのように。

「ご馳走さま」
狭い店内で奥にいた先客が店員に声を掛け、立ち上がる。

「由々しき事態だったな」
その先客はマチルダの背後を通り抜け越しに呟いた。


マチルダは驚き、振り返った。
今男は確かにそう言った…しかし、その後ろ姿は一瞬しか捉えることができなかった。せっかく振り返ったというのに。

「まさかね」
マチルダは被りを振り、再びラーメンのスープを啜った。

店の入口は外からの太陽光に照らされて、まるで天国の門のように輝いていた。

続く。

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渡なべ
03-3209-5615
東京都新宿区高田馬場2-1-4
https://tabelog.com/tokyo/A1305/A130503/13000121/







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