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2020年にボーヴォワールを語る

 A.シュヴァルツァーの『ボーヴォワールは語る』(平凡社ライブラリー)を読んだ。1994年に出版された本だ。
 サルトルが参加した座談会もある。とても面白い。
 ボーヴォワールの語った言葉を拾ってみる。

フェミニストについて

 『第二の性』の巻末で、私はフェミニストではない、と言いました。女性問題は社会主義社会になれば解決されるはずだと考えたからです。フェミニストであることは、階級闘争とは別の、女性固有の要求とたたかうことだと考えていました。
 今日、私の定義は以前と同じです。女性の条件を変えるためにたたかう女性、あるいは男性を私はフェミニストと呼んでいます。それは階級闘争と関連しながらも、しかし階級闘争とは別個に、この変革を社会の変革の下位におくことがないたたかいです。
 私は今日、その意味でフェミニストです。われわれが夢みている社会主義が到来するまえに、女性の具体的な条件のためにたたかわなかえればならないことがわかったからです。もう一つには、社会主義国でさえもこの平等は獲得されていないことがわかったからです。(本書p.43)

 ボーヴォワールのこの文章で、「フェミニスト」を「実存主義者」、「女性」を「自由」や「ヒューマニズム」に置き換えると、J-P・サルトルが『実存主義者とは何か』(人文書院)で語ったことと似ているのがわかる。
 サルトルは、昔、実存主義者と呼ばれることを嫌っていた。それはハイデガーも含む思想であり、パリのカフェで駄弁るだけの知識人を意味していたからだ。しかし、あるときからサルトルは積極的に実存主義を語り、実存主義者を名乗るようになった。
 「実存は本質に先立つ」。サルトルがそう語るとき、人間に本質などない。生まれた後で誰もが人間とは何かをそれぞれに理解して人間のように振る舞うに過ぎない。みんなが違う定義で。けれど、サルトルはそこに類としての人間が持つヒューマニズム、自由への志向を見る。そこへ向かうために自らアンガージュ(参加)する。
 ボーヴォワールにとって、サルトルが「人間」を問題したことと、自身が「女性」を問題にすることの思考構造は似ている。
 2020年にLGBTがこんなふうに位置づけられるとはボーヴォワールも思わなかったのではないだろうか。
 女性が「性」が問われている時代になった。

普遍的価値について

 ボーヴォワールはこんなことも書いている。

 男性はこれらの普遍的価値をつくりあげながらーー普遍的価値とは数学のような科学のことをいっているのですがーーそれにひじょうにしばしば、男性特有のオスの強力な性格を与えてきました。そして彼らは男性的な性質と普遍的価値とのふたつを巧妙狡猾な方法でまぜあわせたのです。だから、このふたつを切り離し、この混淆を探し出すことが大切です。これは可能ですし、女性が行うべき仕事のひとつです。しかし、男性の世界を否定してはなりません。結局はこれも私たちの世界なのですから。(本書p.63)

 普遍的価値。「女性も男性とまったくおなじく全的な人間存在とならなければ。両者の間の差異は女性同士、男性同士にみられる個人的差異と変わりません」とボーヴォワールが書いていることだろう。
 サルトルは、生まれてから人間になると言ったが、ボーヴォワールにとって、それは性の壁を超えることも含んでいるのだ。
 女性であることで、ボーヴォワールの思考はサルトルを超えているのかもしれない。

 母親になることが悪いのではありません。悪いのはすべての女性が母親になるように仕向ける思想と、母親にならなければならないときの状況です。それに加えて、母子関係のおそろしいごまかしがあります。人びとが家族や子どもをこんなに強調するのは、彼らは全体的にひじょうな孤独のなかに生きているからだと思います。友人もなく、恋も愛情もない。ひとりぼっちです。誰かがほしいから子どもをつくる。これはおそろしいことです。子どもにとっても。埋め合わせですから。結局、子どもは成長すると離れます。子どもは孤独に対する保証には全然なりません。(本書p.108)
 現在、男性には女性にみられない欠点があります。しかつめらしく大げさに自分は偉いと信じる男性の醜悪さ。男性なみのキャリアを築いた女性はこのような欠点にすぐ染まってしまいます。それでも彼女たちはわずかながらもユーモアを残し、権力のヒエラルキーから健全な距離を保とうとします。(本書p.111)
 女性のからだが女性に新しい世界観を与えるなどと信じてはなりません。それはバカげた滑稽な考えであり「対抗ペニス」をつくるようなものです。こんな考えを信奉する女性は非合理や神秘や宇宙論の次元にふたたび落ちてしまいます。彼女たちは女性をますます抑圧し、知識や権力からますます遠ざけることのできる男性のゲームをしているのです。(本書p.113)

 ボーヴォワールが女性について、男性について、母親という役割について書いていることを読むと、人間の「普遍的価値」とは何かを考えさせる。
 サルトルは人間は自由という囚われの身だと言った。ボーヴォワールは人間が何に囚われているのかをくっきりと示してくれる。そして、何を、どこを目指すべきなのかを教えてくれる。

老いについて

 ボーヴォワールの晩年の研究は老いについてだった。

 サルトルは老いを「認識不能のもの」ととてもうまい定義をしました。他人にとっては存在しても自分にはわからない何か、です。目が覚めたとき、歩くとき、本を読むとき、私は自分が老いていると考えることはまったくありません。実際、私は自分には年齢がない、すべては若い頃のままだと考えています。しかし、その逆に、ひとは老いを思い知らされる瞬間があるのです。・・・それでも私は自分を老人だと感じられないのです。コクトーはこれについて正鵠をえた表現をしています。「最悪のことは置いても気持ちは若いままのことである」と。(本書p.122)

サルトルとのこと

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サルトルとのセックスについてもボーヴォワールはこの本であけすけに語っている。

 厳密な意味での性行為にはサルトルはあまり興味がありませんでした。でも彼は愛撫が好きでした。私にとっては、サルトルとの性関係は最初の二、三年はひじょうに意味がありましたーーセックスがわかるようになったのは彼との行為をとおしてですから。その後、セックスは重大でなくなりました。サルトルにとってもそれほど重用でなくなったからにすぎません。それにもかかわらず、私たちは15年、20年とかなり長いあいだ性交渉を続けました。でもこれは重要なことではありません・・・・・。(本書p.155)

 ボーヴォワールとサルトルの関係。それはとても不思議な感じがする。

 たしかに、哲学では彼は創造者であり、私は違います。しかし、創造者でない男性はたくさんいるではありませんか。私はこの分野で彼の卓越性を認めていました。ですから哲学に関しては私はサルトルの弟子でした。実存主義を信奉していましたから。私たちはよく議論しました。『存在と無』についてもよく議論したものです。彼の思想のある箇所に私は反対を唱え、彼の説が変わったこともありました。(本書p.156)

 その変わった部分は、『存在と無』のはじめの説明で、自由は誰にでもほぼ全的なもの、あるいはひとは自分の自由を行使するのが常に可能であると語られていたところだそうだ。
 ボーヴォワールはそれに反対して、自由が行使されないとか、ごまかしにすぎない状況が存在するという事実に固執した。サルトルはそれを認めた。そして、その後、彼は人間が置かれている状況にひじょうに重きをおくようになった。

 どうしてサルトルと結婚しなかったのか?
 シュヴァルツァーはこう尋ねている。
――知的にも人間的にも魅力のあるサルトルのような男性を愛して、「妻」になりたいという罠にはまらなかったのはどうしてですか? 「英雄の妻」として相対的な存在に陥らなかったわけは? あなたを自律的な存在へと導いた決定的な要素とは?

 私の人生は最初の数年が刻印したのです。私はつねに自分の仕事を欲していました。サルトルと知り合うずっと以前から書きたいと思っていました。彼とであるすっと以前から夢がありました。――空想ではなく何がしたいかはっきりした夢です。欲望あるいは歓びともいえましょう。だから幸福であるために私は私の人生を実現させなければなりませんでした。そして、私にとって実現とはなによりも第一に仕事を意味したのです。(本書p.157)

 女性の自立とか、自立する女性という言葉が流行った時代があった。
 ボーヴォワールほど自律について教えてくれる女性はいないと思う。
 彼女は決して甘えない。人生を他人のせいにしない。

 そんな彼女はサルトルと同じ墓に眠っている。
 天国でサルトルに甘えているのかもしれない。


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