見出し画像

ロジハラってなんですか?


1.ロジハラとは?

最近、「ロジハラ」という言葉をよく聞きます。
最初、飲み会の席で聞いて、悪い冗談が流行りだしたんだと思っていたら、2年ほど前からネットを賑わしているらしいとか。

作家で元小学校教員でもある乙武洋匡氏(44)が21日、TBS系「グッとラック!」(月~金曜前8・00)にVTR出演。正論を主張して相手を精神的に追い詰める「ロジカルハラスメント(ロジハラ)」について、同番組の水曜コメンテーターを務める西村博之(ひろゆき)氏(43)の名前を挙げる場面があった。

スポニチアネックス 2020年10月21日より

まあ、ひろゆきの名前をあげられると、それもあるかな?と思います。
他人事にしていればいいのですが、自分もそのひとりだと言われるとなにか落ち着かなくなります。

定義を調べてみると、いまや「ロジハラ(ロジカルハラスメント)」は、Wikipedeiaにも載っているんのです。

ロジカルハラスメント(和製英語:Logical Harassment)とは、「正論」を言うことで相手を困らせる、嫌がらせ(ハラスメント)の一種である。略称はロジハラ。
ロジハラは、一方的に自身の意見を押し付けて論破しようとすることで、相手に嫌な思いをさせてしまうハラスメントである。その原因は相手の状況を踏まえていない話の進め方にあり、感情面への配慮を忘れないことも大切とされる。

Wikipedeiaより

2.ロジカルってイケないことなの?

でも、仕事において、物事を体系的に捉え筋道立てて考えるロジカルさは重要なのでは?
根拠をもって主張するってのは、古代ギリシアから脈々と続けている人類の営みなんじゃないかと思っていました。アリストテレスが天国で聞いたら、びっくりするんじゃないでしょうか?

アリストテレスがイケないのではないでしょう。
ロジカル(論理的)ということ自体は、日々の業務から問題点を見つけ妥当な解決策を導き出せるだけでなく、社内のメンバーや顧客とのコミュニケーションでも大いに役立ちます。

ロジカルに物事を説明すると、相手は内容を理解しやすくなります。
自分と相手の認識がズレていたという問題も起きにくくなり、仕事がスムーズに進みます。

ロジカルであることは悪いわけではなく、むしろビジネスパーソンにとって必要不可欠な要素だともいえます。

3.ロジカルがロジハラとなる場面

では、ロジカルであることが、時にハラスメントになってしまうのはどういうときでしょうか。

ロジハラと捉えられてしまうのは、ロジカルに話をした結果、相手を心理的に追い詰めてしまった場面です。
この時の問題点はロジカルだったことではなく、「相手の状況を踏まえていない」話の進め方にあります。
相手の状況とは、仕事の忙しさや難易度、周囲との人間関係、時にはプライベートの問題など様々なことが含まれます。
人間は、今の状況に応じた感情を持つものです。
仕事が忙しい時は焦る気持ちになりますし、同僚との人間関係がうまくいってなければ何日も悩むでしょう。
あるいは家族が入院したといった出来事があれば、常に不安を抱えている状態になります。

https://mba.globis.ac.jp/careernote/1453.html

そうか、なるほど。
ひろゆきがよく言う「それはあなたの感想ですよね」とか、「はい、いいえで答えてください」とかの言い方にそういう追い詰めるのってありますよね。

コミュニケーションをするときは、このような相手の感情面への配慮も忘れないことが大切なんだということです。
ただロジカルに話をしただけでは、相手は納得していない場合も多いのも確かです。
気分を害してしまう時さえあるでしょう。

例えば、部下や後輩から仕事の悩みを相談されたとき、
「あなたの問題点はここにあります。理由はAとBでしょう。つまり、こう行動すれば解決できます。」
と一刀両断に言ってしまってはロジハラになりかねません。
部下の感情を置き去りにしてしまっているからです。
特に、相手から悩みごとを相談された時は、早く解決してあげようと解決策だけを手短に話しがちです。
その一方で、相手はじっくり話を聞いてもらいたかった可能性もあります。
最適な問題解決をしてあげているつもりが、相手の心を追い詰めている場合があるのです。
人間は、誰もが論理と感情の両面を持っています。
論理だけを振りかざすと相手が納得しないどころか、ハラスメントにもなりうることを覚えておきましょう。

ああ、耳が痛い。

ロジハラをしがちな人には、いくつかの特徴があるのだとか。

まず、仕事を通じて他者より優位に立ちたい、あるいは、自分が正しいと証明したいと思っているという特徴です。
このような人は、コミュニケーションの目的が相手を論破することになりがちです。
実は自分に自信がなく、手っ取り早く自信を持ちたいがために身近な人に正論を振りかざしてしまう傾向があるのです。
また、相手を追い詰めるくらいロジカルに話すことが相手のためだと信じ込んでいる人もいます。
このような人は若手の頃に同じようにされた経験があり、結果として自分が成長できたと思っている場合が多くあります。
良かれと思って正論を突きつけているだけに、その危うさに気づきにくいのです。
自分にこれらの思い当たる傾向がないか、ぜひ一度振り返ってみてください。

振り返ってみると、思い当たることがいくつかあります。
だいたいソクラテス、プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲル、ヴィトゲンシュタインが好きってひとは、こういう傾向から逃れるのが難しいですよね。
同じ哲学者でもニーチェやバタイユが好き!というひとはまあそうでもないかもしれません。それはそれで危ないものを感じますが。

4.ロジハラが引き起こす深刻なケース

ロジハラが引き起こす深刻なケースとして従業員の自殺があります。

岡山県のある社会福祉法人(Y)での事件です。
デイサービスセンターに勤務していた介護員(E)が、実質的に施設の指導的立場にあった生活相談員(F)の指導によって、うつ病を発病し自殺したとしたのです。介護員(E)の家族が 、デイサービスを管理していた社会福祉法人(Y)を安全配慮義務違反で裁判所に訴えました。

裁判所は、被告である社会福祉法人(Y)の

・生活相談員(F)の対応は、全て業務に関する注意や指導、助言であって、それらが時に厳しいものであったかもしれないが、介護員(E)の人格や人間性を否定するような言動ではなく業務の範囲内である
・生活相談員(F)は他の職員に対しても、介護員(E)と同様に業務上不適切なところがあれば、厳しく注意、指導をしていた
・施設の業務は利用者の安全確保を最も重視して行われなければならないところ、介護員(E)は報告すべき送迎中の出来事を報告し忘れたり、バスを清掃してもタラップが濡れたままの状態で放置するなどしており、その場合に注意、指導をすることは安全かつ円滑なサービスを提供するために必要不可欠
・生活相談員(F)は介護員(E)を褒めることもしており、個人的な感情に任せて日頃から強く当たっていたわけではない

という主張に対し、以下のように判決を下しました。

生活相談員(F)の指導は、介護員(E)の仕事ぶりが不十分であり、Fが利用者のことを考え、責任をもって仕事をしていたがためにされたものであり、業務に関連したものではあるが、Fの指導は、口調が厳しく、気分によって波があり、過去の失敗を持ち出したり、10分間に渡って叱責し続けたり、他の職員の前で叱責することもあった。
Fの指導はEの能力や性格に応じた指導ではなく、Eの判断能力や作業能力が低下し叱責された時、顔色が変わり固まっているのが目につくようになったにもかかわらず、Eの判断能力や作業能力が低下している原因を十分見極めることなく、仕事ができなくなっているEに対し、更なる叱責を繰り返した。
当該施設が提供する通所介護サービスに過誤や疎漏があってはならないという強い責任感の下に行われた物であったとはいえ、Eの能力や精神状態を考慮することなく繰り返された叱責の態様に鑑みれば、Eの心理的負荷は、社会通念上、客観的にみて精神障害を発病させる程度に過重であったと言わざるを得ない。

https://sakura-midori.jp/blog/leading-case/%E3%80%90%E8%A3%81%E5%88%A4%E4%BE%8B%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%80%91%E6%AD%A3%E8%AB%96%E3%81%A8%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AF%E4%BD%95


つまり、生活相談員Fの指導は責任感から行われたもので、指導の内容は業務に関連したもの(=正論)ではあるが、その指導の仕方は適切ではなかった、と裁判所は判断したのです。

亡くなった介護員(E)は担当すべき仕事ができず混乱するようになってから約10か月後、ガソリンをかぶり焼身自殺を図り、その後亡くなったとか。痛ましい事件です。

5.ロジハラの被害者にならないための対処法

職場におけるロジハラが起きやすい場面として、よくあげられるのが次の3つの場面です。

ミスやトラブルが発生した場面
ミーティングや会議などの場面
情報共有や報連相が必要な場面

まず、被害者の対処法を考えてみましょう。

話を最後まで聞いてみる

ロジハラ加害者は、自分の意見や主張を相手に聞いてもらいたい傾向が強いため、不快だからと言って不必要に遮ってしまうと、かえって感情を逆撫でして、さらにハラスメントが悪化する可能性があります。
まずは、最後まで話を聞いてみると、加害者もそれだけで満足して、ハラスメントをおこなわなくなる場合もあるでしょう。

本人に伝える

ロジハラ加害者の意見に明らかな矛盾がある場合や、ロジハラがあまりにも目に余るようであれば、直接本人に伝えてみるのも効果的な手段のひとつとなります。
ただし、こちらも単純に正論を展開するだけでは、かえって相手の感情を逆撫でしてしまう状況につながりかねません。
相手が聞き入れやすい環境や、言葉遣いで話し合いを進める対応が重要です。
相手と距離をとる
直属の上司・部下といった職務上、近しい関係でなければ、できるだけ接触の機会を減らす対応も効果的です。
ただし、職場という環境上、完全に接触を断つ対応は難しい場合もあります。
自分だけで無理に対処しようとせず、適度に距離をとりつつ、適切な部署や担当者に相談する行動が大切です。

上司や人事に相談する

相手との距離をとる、直接伝えるという手段がとりにくい場合は、適切な部署や担当者に相談しましょう。
企業は、従業員が健康的に生き生きと働けるように、ハラスメントに対処する義務があります。
ロジハラによって、ストレスがかかり、メンタル不調をきたしそうな場合は、早期に上司や人事部に相談するようにしましょう。ハラスメントをうけた際に、対策や抵抗をおこなわないと、ハラスメントがエスカレートしてしまう危険性があります。
自分の心と身体を守るためにも、自分がロジハラの被害者となった際の適切な対処方法を知っておく心構えが大切です。

6.ロジハラの加害者とならないための対処法

次にロジハラの加害者にならないための対処法です。

相手の感情を想像する

自分の論理が正しいかを考えるのは保留して、まず相手の感情を考えてみましょう。
相手はどのような状況にいて、どのような感情で話をしているのかを想像してみてください。

相手の感情を否定しない

人間はどのような時にも感情があります。
相手の今の感情を否定せず、会話をする前提条件になると理解してください。
「自分の意見を受け入れない相手が悪い」と決めつけてはいけません。
ひどく悩んでいるなどの理由から、頭では理解していても共感できない時もあるでしょう。

相手が納得し、共感する話し方を心がける

コミュニケーションの目的は、相手が話の内容を理解し、納得し、共感することです。
この目的を踏まえると、相手の感情によって話し方を変える必要があります。
例えば相手が悩んでいるようなら、自分が話す前に相手の話をじっくり聞くのが良いかもしれません。
あるいは相手が結論を早く知りたそうであれば、要点のみ話すのが最適な場合もあるでしょう。
同じ内容を伝えるにもしても、相手と場面によってコミュニケーションの仕方を変える必要もあります。
口頭、メール、資料など、伝える手段を変えても良いでしょう。

なぜ自分の会話がロジハラになってしまうのかを考える

ロジハラをしてしまった根本的な原因を考えてみましょう。
相手を論破したい気持ちが心のどこかにあるのではないか、自分が過去に上司から受けた接し方を部下にもしているのではないか、などと自分自身を深く見つめてみてください。
自分と対峙するのは簡単ではありませんが、ロジハラを繰り返さず、組織で仕事の成果を上げるためには大切なポイントです。

ロジハラのネット解説ではだいたい同じようなことが書かれています。
こういうのを読んで、ああ明日から実践しようと思う人と、これは自分のことではないと思う人がいるのだと思います。
明日から実践しようと思う人がずっと続けられるかというと、そうでないのが現実です。ネットの記事を読んだくらいで世の中が変わるなら簡単です。そうでないところでどういう対策をとるのか?
それが各事業所を運営する人たちに求められていることであり、全従業員が取り組むべきことなのでしょう。

7.ロジカルな哲学者の苦悩と希望

ネットのロジハラ対策の記事には、ロジハラと正論の違いを解説するものがあります。
正論とは、事実や論理にもとづいて正しいと認められる議論や主張のこと。正論であっても、時と場合によってはロジハラになりえるため注意が必要です、と。

また伝え方を誤った場合も、正論ではなくロジハラと捉えられるかもしれません。ここでは正論とロジハラの違いを解説します。

相手を傷つける適切に正論を用いると、事実や論理にもとづいて議論が進み、対話を深めて合理的な解決策を見つけやすくなります。

一方ロジハラは正論で相手を説き伏せようという攻撃的な意図を持って、相手の立場や背景などを考えずに正論で詰め寄るのです。対話の品質を低下させるうえに、相手の自尊心や自信などを傷つけかねません。

本人に相手を傷つける意図がなかったとしても、相手の捉え方によってはロジハラと見なされる場合もあるため注意が必要です。

一方的なコミュニケーション正論では道理に沿った対話を展開し、お互いの理解と納得を高めて双方向のコミュニケーションを促進します。

一方でロジハラは、「自分が正しい」「自分の意見を認めさせる」という結論ありきの対話であるため、相手の意見や立場を考慮しない一方的なコミュニケーションになりやすいのです。

ときには攻撃的な口調で圧迫感を与えて萎縮させ、自分の理論を展開して相手の意見を封じ込めるといったケースも見られます。

プラトンが書いたソクラテスと誰かの対話編には論理で相手を説き伏せるシーンがいくつも出てきます。論敵を何人も、その人のなかにある論理によって改心させていきます。でも、あれって、ソクラテスのロジハラですかね。

さて、この世の中には、もうソクラテスやプラトン、アリストテレス、ヘーゲルなどの論理が必要ないのでしょうか?
ヴィトゲンシュタインが書いた『論理的哲学論考』なんて害にしかならないのでしょうか?

論理を突き詰めたように見える哲学者・ヴィトゲンシュタインは、第一次大戦に従軍し、戦場でなぜかトルストイによる『要約福音書』を読んでいました。

イエスは自分に言った――自分の父は肉でなくて霊である。自分は彼によって生きている。自分はつねに彼をわがうちに知り、かれひとりのために働き、かれひとりから報いを期待しているにずぎない。

トルストイ『要約福音書』

ヴィトゲンシュタインにとって、論理とは何であったのか?
『論理学的論考』ではこう書いています。

論理学は学説ではなく、世界の鏡像である。論理学は超越論的である。

※「超越論的」と訳すのは丘沢静也、黒田亘は「先験的」と訳している。

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.13

https://www.kotensinyaku.jp/books/book182/


論理というのは世界を移す鏡であると言うのがヴィトゲンシュタインの捉え方です。それは人間によって作られたものではないのです。見えたり、触れられたりするものではなく、人間にだけ世界として捉えられるものであるということです。世界を移す鏡、それが論理学であると。

では、ヴィトゲンシュタインにとって、「世界」とは何だったのでしょうか?
どうして、ヴィトゲンシュタインは戦場で福音書の解説を読んでいたのでしょうか?

世界がどうであるのかは、より高いものにとってはまったくどうでもいい。神が姿をあらわすのは、世界のなかではない。

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.432

世界がどうであるのかということが、神秘的なのではない。世界があるということが、神秘なのだ。

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.44

世界がある、人間がそれを知る。そのこと自体が神秘なのであると。

人間は他人には言葉でその世界を伝えようとします。それは音であったり、文字や記号という見えるものであったりします。

口にすることができない答えにたいしては、その問いも口にすることができない。
    謎は存在しない。
    そもそも問うことができるなら、その問いには答えるともできる。

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.5

ただし、口に出せないものが存在している。それは、自分をしめす。それは、神秘である。

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.522

ヴィトゲンシュタインは、生まれてきたこと、世界があると感じることこそ神秘なのだと言います。
しかし、ヴィトゲンシュタインの家族の多くが自殺しています。
論理によって、自分を追い込んでしまう傾向のある家系だったのかもしれません。だからこそ、ヴィトゲンシュタインは、生きて世界を受け入れるために、あれこれ考えたのでしょう。

論理によってしか思考できない一群の人々も昔からいるのだと思います。
それがソクラテスであり、カントであり、ヘーゲルであり、ヴィトゲンシュタインだったのでしょう。

自分の感じた世界を誰かに言葉で伝えようとすると、論理的に構成した言葉でしか相手に伝えることはできません。ハチャメチャな言葉を相手は理解できないでしょう。クスリでもやってるの?とか思うだけです。

今、世の中には論理によるハラスメントで他者を追い詰めたりする現象が起きています。
それは主に言葉、言語によるハラスメントです。
この世の中には言葉が過剰なのかもしれません。
ヴィトゲンシュタインは、自分の言語の限界が世界の限界だと考えました。

私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』5.6

この場合の言語とは、文字で表される言語だけでなく、記号や数字なども含んでいると思います。
例えば、「宇宙」の限界は言語で表される限界のことなのです。光が届く世界の外はわからない。そう書けば、それが表される「宇宙」の限界です。
人と人の間にも世界があります。それが表される限界もあります。

ヴィトゲンシュタインの『論理学的論考』は、この言葉で終わります。

語ることができないことについては、沈黙するしかない。

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』7

今、大事なのは、語る時間より、沈黙する時間なのかもしれません。

***********

10分くらい時間がある人には、このYoutubeがお勧めです。
哲学とは関係ありませんが。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?