酒場に響く神の歌声

高瀬甚太

 山根近介こと近ちゃんが立ち呑みの店「えびす亭」に初めて顔を出したのは、三年前の酷寒の年末のことだ。
 その日、大阪では珍しく大雪が降り、電車がストップするわ、車の事故が相次ぐわで街が大混乱していた。店に来る客も少なく、「早じまいしようか」とマスターが話していたところに現れたのが近ちゃんだった。
 近ちゃんは店に入ってくるなり、「寒い寒い」を連発し、「芋焼酎、お湯割りで~」と歌うように言ったので店にいた客はみな笑った。
 マスターも客も、近ちゃんがふざけて言っていると思っていたのだが、実際は違っていた。真面目も真面目、大真面目、近ちゃんは、普段、話をする時もそんな話し方をした。
 近ちゃんの職業は、クラシック専門の音楽事務所で働く営業マンで、オルグと称する営業活動を地域の小中学校、高校を相手に行っていた。
 しかし、近ちゃんの営業成績は極端に悪かった。首がつながっているのが不思議なほどで、性格がいいから続いているのだろうと他の社員が噂をするほど惨憺たる営業成績だった。
 近ちゃんを知る多くの人が掛け値なしに昆ちゃんの性格がいいと口を揃える。それほど近ちゃんの性格は素直で明るくて好感が持てた。誰にも好かれる明るい性格なのに、それがなぜ営業成績につながらないのか、会社の誰もが不思議に思っていたのだが、ある時、近ちゃんの得意先である小学校の教頭が近ちゃんの会社を訪れたことでその謎が解けた。
 近ちゃんは、営業先で肝心の営業をしていなかったのだ。
 教頭が言った。
 「近ちゃんときたら、営業だといってうちに来る癖に営業をせずに歌を歌って帰りよる。また、その歌がうまいものだからみんな聞き惚れてしまって思わず拍手をしてしまう」
 教頭はそういって笑った。この話を聞いた会社の誰もが耳を疑った。近ちゃんの歌など誰も聞いたことがなかったからだ。
 理事長の高橋昇はこの話を聞いて、早速、近ちゃんに一つのことを提案した。
 ちょうど会社の二〇周年が近づいていた時だった。ホテルで盛大なパーティーを行う予定でプログラムもしっかり組まれていた。そのプログラムの中に近ちゃんの歌を組み入れようと、高橋が提案した。それを聞いた関係者は挙って反対した。
 「うちはプロの音楽家を扱う会社です。そんな中へ素人の、しかも誰も聞いたことのない近ちゃんに歌を歌わせるなんて……」
 しかし、高橋は強硬に自分の意見を通した。周囲の人間はそんな高橋をみて珍しいこともあるものだと驚いた。高橋はこれまでみんなの意見をよく聞き、それを取りまとめることを得意としてきた。その高橋が自分の意見を強硬に通すなど前代未聞のことだった。周囲はあきれ返りながらも高橋の意見に従った。
 近ちゃんはこのことを一切知らされていなかった。すべて当日のサプライズで、関係者の誰もが近ちゃんが歌うことを秘密にしていた。
 二〇周年当日、この日は朝から晴れ渡り、好天気だった。会場には音楽関係を中心に三〇〇人の大人数が集まり、会社の二〇周年を全員が祝福した。
 順調にプログラムが進行し、ちょうど中間地点になった時のことだ。理事長である高橋がやおら檀上に立ち、
 「ここで一人、わが社の欠陥社員をご紹介します」
とぶち上げた。
 事情を知っている社の人間は苦笑した。誰のことを言っているのか、すぐにわかったからだ。
 高橋は、コホンと一つ咳をすると、饒舌に語り始めた。
 「私どもの会社にはいてもいなくても、どっちでもいい社員が一人おります。ええ、経営だけを考えると、この社員には本当にみんな参っています。ところがこの社員、仕事はできないのにすこぶる性格がよくて、みんなに好かれているんです。やめさせるにやめさせられず経営者としてはほとほと困っておる次第です。そこで罰として、ここでこの社員に歌を歌わせようと思います」
 高橋は、会場の端で客の応対をしている近ちゃんに向かって大きな声で言った。
「近ちゃん、ステージに出て、歌を歌えや!」
 指名された近ちゃんは一瞬戸惑った表情を浮かべた。大勢の前で歌ったことなどないし、果たして自分の歌がみんなに聞いてもらえるような代物であるかどうか不安だったからだ。それでも拍手が起こり、会場に拍手の音が鳴り響くと躊躇している暇などなかった。近ちゃんは覚悟を決めてステージに立った。
 近ちゃんは高橋からマイクを預かりステージに立った。その時、近ちゃんの背に高橋が一言、「がんばれよ」とやさしい言葉を投げかけた。
マイクの前に立ち、近ちゃんは深々と礼をした。その姿をみて、拍手と笑いが同時に起きた。
 「近ちゃんのことだ。調子外れの歌を歌っておれたちを爆笑させてくれるぜ」
 社員の多くはそう思っていたし、会場に集まった多くの音楽関係者も同様の期待を持って見守っていた。問題社員だから当然のことだったのかもしれない。
 アカペラで近ちゃんが歌い始めると、急に会場がざわざわとしはじめた。その声があまりにも素晴らしくきれいだったからだ。
 やがて騒動しかった会場が水を打ったかのように静まり返った。その瞬間、誰もが近ちゃんの歌に聞き入った。歌がうまいとか、下手だとか、そういったものを超越したものが近ちゃんの歌にはあった。心に響き渡る近ちゃんの歌声を聴いた多くの人は、悲しい歌でもないのに、不思議な感動に打たれてすすり泣きをはじめた。
近ちゃんの熱唱が終わっても会場からは何の反応も起きなかった。でもそれはほんのちょっとした時間でしかなく、次の瞬間には大きな拍手に変わっていた。
 翌日、近ちゃんは理事長の高橋に呼ばれた。
 「山根近介くん、長い間、営業職ご苦労だったな」
 高橋は開口一番、そう言って近ちゃんをねぎらった。
 ああ、とうとうクビか……、近ちゃんは高橋のねぎらいの言葉を聞いて覚悟をした。
 「営業職を今日かぎり解く。今日からきみはオペラ歌手として当社専属になれ。いいな。これは命令だ」
 高橋の言葉は近ちゃんにとってまったく予期しないものだった。確かに歌手には憧れてきたけれど、それは自分にとってかなわぬ夢と思い続けてきた。だから高橋の言葉がにわかには信じられなくて、しばらく呆然とした。
 「どうした? おまえは今日から歌手なんだぞ」
 その言葉で我に返った近ちゃんは、高橋の前で最敬礼をし、涙を流した。
 「がんばれよ」
 高橋の優しい声を体全体で受け止めた近ちゃんは、さらに深く頭を二度下げて理事長室を出た。
 その日、近ちゃんは真っ先にえびす亭を訪れた。えびす亭ののれんをくぐった近ちゃんは、いつものように、
 「芋焼酎、お湯割りで~」
 と言った後、オペラの一節を突然歌い始めた。驚いたのはマスターや店の客だ。えっ、という表情で歌い始めた近ちゃんを見守った。
 雑然とした立ち呑みの店が一変してオペラハウスのようになった。
 それは不思議な光景だった。店に同席した客が一斉に沈黙し、近ちゃんの歌に聞き入った。誰も彼もが酒を呑むことすら忘れて近ちゃんの歌にその身を浸した。
 歌は時として人にさまざまな思いをよみがえらせる。この日の近ちゃんの歌がそうだった。えびす亭に集まった客の多くが近ちゃんの歌を聞いて涙した。
 以来、近ちゃがん店にやって来ると、ほんのわずかな時間だが、近ちゃんのワンマンショーが始まった。ほんの短い時間だが、その歌声は、酔っ払いのおっちゃん、おばちゃん、兄ちゃんたちを魅了した。噂が噂を呼び、普段はあまり顔を見せない人までもが近ちゃんの歌を聴きにやって来た。近ちゃんの歌は、いつの間にか、えびす亭のみならずこの界隈の注目の的になっていた。

 近ちゃんが店にやって来なくなったのはその年の暮れ近くのことだ。急に姿をみせなくなったので誰もが心配した。
 病気で入院しているらしい、いや、外国に招待されて行ったようだ。好きな女性に振られて落ち込んでいるなど、近ちゃんを巡る噂が一人歩きし錯綜した。一か月、二か月経っても近ちゃんはえびす亭に一向に姿をみせなかった。
 「近ちゃん、どうしているんやろなあ。歌聞きたいわ」
酒を呑んでいた浜やんがしみじみ言うと、全員が「もう一度、聞きたいなあ」と合唱するように言った。
 「マスター、マスターは近ちゃんのこと知らんのかいな?」
 店の客のことなら何でも知っているはずのマスターも、近ちゃんのことだけはあまり知っていなかった。近ちゃんは店に来ても自分のことをあまり喋らなかったし、歌を歌う以外、話らしい話をしなかった。
 普通は、頻繁に店に来るようになると、それとなくどこで働いているとか、どこに住んでいるとか、一人もんやとか、嫁はんに逃げられたとか、そういった話をするようになるものだが、近ちゃんは一切、そんなことを口にせず、歌って呑んで帰ることが多かった。
 「もっと聞いておけばよかったなぁ」
 マスターは近ちゃんのことを客に聞かれると、しみじみそう言ったものだ。
 それでも半年も経つと、誰も近ちゃんのことを口にしなくなった。立ち呑みの店にやって来る客はどんどん入れ替わる。昨日まで足しげく通っていた人が、えびす亭を離れて、翌日から違う店の常連になっていることも珍しくない。急に来なくなる人もおれば、亡くなったと悲報を聞かされることもあった。
 近ちゃんも今頃はどこかよその店で歌って呑んでいるのかもしれない。マスターはそんなことを思っていた。
 近ちゃんがえびす亭に来なくなって一年が過ぎた頃のことだ。店の中でテレビを見ていた客の一人が大きな声を上げたので、客のみんなが驚いた。
 「近ちゃんや!」
 久しぶりに聞くその名前に、みんなが一斉にテレビの画面に注目した。
 小さなテレビの画面に近ちゃんと思われる人物が出ていた。
 「おい、あれ、本当に近ちゃんか?」
 政やんが言うと、もう一人も同調するように言った。
 「確かに顔は似ているけど、頭がなあ」
 テレビの画面に登場した昆ちゃんは、確かに顔は近ちゃんのようだったけれど、頭の真ん中が見事に禿げていた。そう、河童のように。
 それでもテレビのその人物が歌を歌い始めると、酒を呑んでいた全員が、
 「やっぱり近ちゃんや!」
 と大声で叫んだ。
 「やっぱりええなあ。近ちゃんの歌はええわ」
 誰が言うともなく言うと、酒を呑んでいたほとんどの者が大きくうなづいた。
 マスターがテレビのボリュームを一杯に上げると、ほろ酔い気分の連中の中には歌を聴きながらすすり泣く者まで現れた。
 テレビに出演した近ちゃんは、司会者に聞かれて、長期間、ドイツに修行に出かけていて、本日帰ってきたばかりだと、話した。
 「やっぱり日本を離れていたんやなあ」
 一人が言うと、もう一人が、
 「もうこんな店、来てくれへんわなあ」
 と寂しそうに言った。
 「悪かったなあ、こんな店で」
 マスターはそう返しながらも、
 「来てくれへんやろなあ」
 と笑ってひとり言のようにつぶやいた。
 そんな時、突然、一人の男が入ってきた。その男は入ってくるなり、
 「芋焼酎、お湯割りで~」
 と歌うような調子で言った。マスターはぎょっとしてその声の主をみた。他の客も一斉にその男に注目した。今、放映しているテレビ番組に出ている男が目の前に現れたのだから驚かないはずがない。
 「近ちゃんや!」
 客が驚きの声を上げた。
 「こ、近ちゃん、いらっしゃい! 久しぶりやなあ」
 マスターが興奮した口調で言うと、近ちゃんを知っているみんなも口を揃えて、
 「近ちゃん、いらっしゃい」
 と言った。
 「今、テレビに出ている人がなんでここにおんの?」
 金之助が近ちゃんに尋ねると、近ちゃんは澄ました顔で、
 「あれは録画です。私、三日前にドイツから帰ってきて、やっと今日、この店に来れました。ドイツにいた時、ずっと思っていました。えびす亭で芋焼酎、お湯割りで呑みたいなあって」
 近ちゃんは禿げた頭のてっぺんを撫でながらそう言った。きっとドイツで苦労したんやなあ……、マスターはそう思いながら近ちゃんの頭のてっぺんをしみじみと眺めた。
 「近ちゃん、そろそろ一曲、行きまへんか」
 おしゃべりの楠本さんが、メタボのお腹を撫でながら近ちゃんに声をかけると、ほかの客も囃し立てるように手を叩いた。
 芋焼酎のお湯割りをぐいっと開けた近ちゃんは酒の味を噛みしめるようにしばらく沈黙すると、それまで賑やかだった店内がシーンと静まり返り、音一つしなくなった。
 近ちゃんの声が地の底を這うようにして聞こえはじめた。すると、店の客の誰もが言葉を失って近ちゃんの声に聞き入った。これはもう人間の声ではないのではないか、とその歌を聞いた誰もがその時、思っただろう。これはきっと神の声なんだ。そう思わせるほどその声は美しくやさしく華麗で、神々しかった。
 近ちゃんが歌い終わると、店の中にいたほとんどの者がまるで金縛りにあったかのようにその場に立ち尽くした。そして誰もが無性に人恋しく思い、その場で涙した。
 近ちゃんの歌は愛の歌だ、とテレビ番組の司会者が語っていた。近ちゃんの歌を聴くと、なぜかみな、大切な人のことを思い出した。
 山根近介、世界に名だたるテノール歌手だ。彼の歌を間近で、しかも無料で聴けるのだからえびす亭の客は本当に幸運だ。彼は、店のみんなから近ちゃんと親しみを込めて呼ばれていたが、いつしか河童の近ちゃんと呼ばれるようになった。頭のてっぺんが見事に禿げあがっていたからだ。
 河童の近ちゃんは、その多忙な時間の合間を縫い、時々、えびす亭に出没する。もしえびす亭で運よく出会えたらその人はかなりの幸せ者だ。
<了>


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